芦屋城 プロローグ 美方郡新温泉町

豊岡市からR178号「鳥取豊岡宮津自動車道」に入り佐津・香住・余部ICを通るルート。余部ICの僅かなトンネル間の隙間!から北方1Kmの地道?R178号沿いに余部鉄梁と但馬の海が望まれるがトンネルの連続し終端の新温泉浜坂ICを出て地道のR178号に合流してJR浜坂駅前を過ぎると芦屋(浜坂漁港)の西面を北方の但馬海岸線に落ち込む岩壁上へと突出す丘陵部を塩谷(諸寄漁港)に越える城山(芦屋城)への峠。
   諸寄港より:最高所に本丸:左尾根端に出曲輪・鞍部手前台地に駐車場・右の峰に二ノ丸!
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車道林道入口の”浜坂ユースホステル(?休館中)看板に気付かなかったが、今回は但馬の城山(石禾城/岡比丘尼城宵田城藤井東城(仮称))等に度々一緒した知人は但馬の城縄張作図の第一人者:西尾氏の調査に同行したこともある彼も緻密な縄張図を作図しており案内を任せての訪城。峠を右折し車道林道を進む行止まりが城山園地の駐車場。此処まではハイキングというより
      城山園地駐車場:正面案内板側が散策道と城山登山口
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日々のウオー-キングを楽しむ2ー3人グループが平日でも訪れ、園地の東屋展望所で芦屋城に向かう蒼い城山や転じて但馬海岸沿いの白い岩礁と日本海の碧い海・諸寄の港を見下ろす美しい景観を堪能しながら、一通り会話を楽しんでから車道林道を降りながら戻ってゆく。尤も山城に興味を示す人は少ないかも知れない。
      城山園地展望所からの諸寄漁港全景
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R178号が越える峠から北方へ突出す半島は其の付根付近の二つの丘陵上に芦屋城二ノ丸と最高所に主郭を置き、更に北へは太いフイックスロープを頼りの激急斜面を但馬の海に向かって幅狭い尾根筋を辿る。途中城山と半島北へ延びる尾根筋間が切通し道で城山園地からの遊歩道が崩の浜海水浴場・加藤文太郎之碑への「近畿自然歩道」案内板が立つ分岐点となっている。
      芦屋城の北尾根・散策道合流点の切通し分岐
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さすがに半島先端の矢城ヶ鼻の岩壁・岩礁群に落ち込む(西に諸寄・東は浜坂の漁港)尾根筋ルートの表示はない。ふるさとの碑:文太郎から先への遊歩道が矢城ケ鼻灯台に通じているよう!?。新田次郎の「孤高の人」に描かれた丹独行者の加藤文太郎は浜坂・同じく登山家・冒険家:植村直己(豊岡市日高町)の人。
      芦屋城北尾根の激急斜面途中に望む浜坂漁港
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城山園地の駐車場からの眺望は眼下に諸寄漁港・西北防波堤の西北に白い小さな灯台が建つ岬の先端峰から一気に80m程の岩壁を海に落とす。日和山と呼ばれ江戸時代:御城米…等を運搬する北前船寄港地で往来していた当時は演歌のタイトルの様な名称「風待ち湊」として賑わったという。
   単独行者「孤高の人」加藤文太郎の碑前の広場からも眼下に浜坂漁港が望まれる
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渡船場の「川留め」とは違って冬の日本海の荒天の船出の厳しさを感じさせる「風待ち」だが長いトンネルが連続する(R483)北近畿豊岡自動車道・(R178)山陰近畿自動車道を乗り継いで城山園地の到着すると此処にある井上真一(?地元の詩人)の歌碑の「峠越す また峠越す その度に 峰より高し 但馬の海は」を実感する。
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天正年間:明智光秀の黒井城(丹波市)攻めに際し鉱脈・水脈を熟知する鉱山師集団の女首領:橋爪某を詰問して城の水の手を聞き出し・水の手を止められ落城した。赤井・荻野の残党により橋爪一族は処刑された…山崎の合戦に小栗栖で光秀を討ち取ったの橋爪一族だったとか、水の手は黒井城砦群の北麓:白毫寺付近の谷にありサイフォンの仕組みを竹材を導通として取り入れ山上へ配水したとも…!!。
    本ノ丸の削り残し露岩部側の穴が井戸跡?というが天水受け井戸とも思えない…?
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よく似た伝説は芦屋城(亀ケ城)にもあった。こちらは天正8年8月羽柴秀吉軍の第二次但馬侵攻の際:宮部善祥房継潤の攻撃に落城するが、要害の城の攻略に攻めあぐねていたが別名を亀ヶ城「亀の首を切らなければ落ちない…亀の首は“坂の上…”」だと話してくれた茶店のおばあさん。坂の上とは本ノ丸の南の山(二ノ丸)のことか?。サイフォンのようにして取水し・其の水源を絶ったことで落城したと云う!!。茶店には男の子が生まれなくなり家は絶えた…とも…
参考(現地:城山園地案内板 郷土の城ものがたり-但馬編:兵庫県学校厚生会)

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