芦屋城 Ⅲ:戦国史 美方郡新温泉町
芦屋城 プロローグ 芦屋城 Ⅱ:遺構 芦屋城 Ⅲ:戦国史
芦屋城は別名を阿勢井城・亀山城・亀ヶ城・諸寄城と呼ばれ、城は周囲を断崖絶壁に囲まれた天然の要害地は、但馬・因幡国境に位置して但馬海岸沿いの諸寄・浜坂港を利用する海上交通要衝地?の押さえとして標高175mの山上に築かれ・海上を往来する物資輸送等運行を監視・警備するための海城の特徴をもつ城の様!?。
主郭西部端から諸寄漁港(右手:西出曲輪への尾根)
山名氏清は南北朝期:足利尊氏の挙兵に従軍し軍功により建武4年(1337)尊氏より伯耆守護に補任され、山陰地方随一の勢力となり、やがて全国66ヶ国の11ヶ国を守護領国にもち「六分一殿」と呼ばれた山名氏。塩冶氏遠祖は近江源氏嫡流:佐々木氏一族で宇多源氏の成瀬が蒲生郡佐々木庄に住み、
芦屋城主郭東部(発掘調査された主曲輪)
承久の乱(承久3年 1221)の功に対し成瀬の孫:秀義の五男:義清が出雲・隠岐守護に補され、義清の孫:出雲守護頼泰が惣領として塩冶郡を根拠として塩冶左衛門尉を称し塩冶氏の祖とされる。暦応4年(1341)幕府の重臣で出雲・隠岐の守護に補されていた塩冶(判官)高貞が京都を出奔し出雲に逃れ、
芦屋城主郭西部(櫓台?・井戸跡?は削り残し露岩部と貯蔵倉か試掘跡?)尊氏への謀叛を疑われ山名時氏と嫡男の師義・桃井直常らにより出雲で討伐され塩冶氏嫡流は没落したとも。…が高貞の弟:塩冶時綱は生き残り子孫は出雲国に存続、後:出雲守護職京極政経から守護代を任ぜられた塩冶掃部介がいるが因幡塩冶氏については割愛。…山名時氏の代”正平(南朝1346ー70)/貞治(北朝1362ー68)”に
主郭西部南面の二段帯曲輪は主郭東部間の虎口まで延びる幕府から伯耆・丹波・丹後・因幡・美作の5ヶ国の守護職を得ているが、南北朝期や守護大名同士の抗争により山名氏勢力拡大に注力し、出石郡の此隅城を本拠として:各国内に城を築き朝来郡(武田城)に太田垣氏・養父郡(但馬八木城)に八木氏・気多郡(日高の楽々前城)に垣屋氏…因幡国境の但馬北西端:二方郡(新温泉町・芦屋城)に
虎口からの主郭部西曲輪:左端二段帯曲輪・ベンチ右手に櫓台?・井戸跡?塩冶氏を置いた。塩冶判官高貞没後は甥の塩冶通清の四男:周防守の子(孫)?某を祖として、但馬山名氏に仕え有力被官となった塩冶氏は「周防守」・「塩冶左衛門尉」・「塩冶肥前守」・「塩冶前野州太守」・「塩冶彦五郎」…の名が散見され、戦国時代に登場する芦屋城主・塩冶高清はその末裔であるとされます。
主郭部西端の櫓台と云われる露岩部頂からの諸寄漁港だが…!?南北朝期頃より続き恩賞として任命され与えられる官位官位「周防守」…が其の後も続いたものか?武家官位としての「周防守」が代々領国名として引き継いできたのか?不詳だが、芦屋の”龍潜寺”開基として祀られる芦屋城主塩冶周防守は天文8年(1539)に亡くなっている。因みに高清(周防守)の父:綱高は(若狭守・左衛門尉)・髙清の長男は安芸守。元亀2年(1571)塩冶肥前守(尼子方!・織田信長方)のとき
二ノ丸:帯曲輪からの虎口を中央曲輪に入る(通信施設か祠跡?)毛利方の因幡山名氏当主の豊数や鳥取城主:武田高信が、布施城に居た山名豊国が攻撃を察知し、豊国と通じ芦屋城に逃れ?、高信の嫡男・次男らが芦屋城を攻撃するが、塩冶勢には二方郡(美方郡温泉町…)の七釜城主田公筑前守・温泉(ゆの)城の奈良氏・指杭城主矢谷伯者守・栃谷城(おどろが城)塩冶左衛門ら援軍により撃退し
二ノ丸:主要曲輪南斜面の二重堀切逆に高信の息子二人を討取っている「庭中合戦」。但馬塩冶氏の末裔:戦国最後の芦屋城主塩冶(周防守)高清は天正8年(1580)羽柴秀吉の弟秀長による第2次但馬攻めに、共に山名氏配下の但馬水軍(根拠地は城崎の津居山・最盛期は丹後水軍・隠岐水軍としても隠岐・丹後・若狭に勢力を延ばしていた)の奈佐日本之介だが、
二ノ丸:二重堀切の下方に拡がる小曲輪群は?芦屋古城の遺物!?鳥取城の落城により山名豊国は秀吉に降伏した。周防守は山名氏の後:新たな鳥取城主毛利方の吉川経家を頼り因幡に逃れ、翌天正9年羽柴秀吉の鳥取城攻めでは鳥取城への兵糧輸送・備蓄基地としての”繋ぎの城”として機能した支城の雁金城・丸山城(奈佐日本之助の城)を重要視した秀吉は宮部継潤に命じ此れを攻撃させ、
主郭部東曲輪からの激急斜面北尾根筋からの浜坂漁港高清は此れをよく禦ぐが激戦に:いずれも落城し吉川経家は降伏・塩冶高清は丸山城に退くが此処で自刃します。後:高清の子:塩冶安芸守やその弟の塩冶高久は吉川氏家臣となり周防岩国に移った。芦屋城は其の後:鳥取城代となった宮部善祥坊継潤の持ち城となり、更に「関ケ原の戦い」に宮部氏が自害し後慶長10年(1605)
城山園地(駐車場)から散策道と芦屋城主郭部を望む山崎家盛が因幡・若桜(鬼ヶ城主)に入り、二方郡内6014石を分領された弟:宮城(右京進)頼久が芦屋城東山麓(芦屋)に陣屋を構え、寛永4年(1627)三代宮城主膳正豊嗣(頼久の嫡男)のとき、陣屋を芦屋から清富に移して芦屋陣屋は廃された。
【参照】但馬国ねっとで風土記(とよおか市民学芸員講座)・但馬の城ものがたり(塩冶氏と芦屋城)・
”兵庫県の中世城館・荘園遺跡”・郷土の城ものがたり(兵庫県学校厚生会)・現地:芦屋城案内板…
資料により年・人名等に差違があるが未確認 間違いはご容赦を…
芦屋城は別名を阿勢井城・亀山城・亀ヶ城・諸寄城と呼ばれ、城は周囲を断崖絶壁に囲まれた天然の要害地は、但馬・因幡国境に位置して但馬海岸沿いの諸寄・浜坂港を利用する海上交通要衝地?の押さえとして標高175mの山上に築かれ・海上を往来する物資輸送等運行を監視・警備するための海城の特徴をもつ城の様!?。
主郭西部端から諸寄漁港(右手:西出曲輪への尾根)
山名氏清は南北朝期:足利尊氏の挙兵に従軍し軍功により建武4年(1337)尊氏より伯耆守護に補任され、山陰地方随一の勢力となり、やがて全国66ヶ国の11ヶ国を守護領国にもち「六分一殿」と呼ばれた山名氏。塩冶氏遠祖は近江源氏嫡流:佐々木氏一族で宇多源氏の成瀬が蒲生郡佐々木庄に住み、
芦屋城主郭東部(発掘調査された主曲輪)
承久の乱(承久3年 1221)の功に対し成瀬の孫:秀義の五男:義清が出雲・隠岐守護に補され、義清の孫:出雲守護頼泰が惣領として塩冶郡を根拠として塩冶左衛門尉を称し塩冶氏の祖とされる。暦応4年(1341)幕府の重臣で出雲・隠岐の守護に補されていた塩冶(判官)高貞が京都を出奔し出雲に逃れ、
芦屋城主郭西部(櫓台?・井戸跡?は削り残し露岩部と貯蔵倉か試掘跡?)尊氏への謀叛を疑われ山名時氏と嫡男の師義・桃井直常らにより出雲で討伐され塩冶氏嫡流は没落したとも。…が高貞の弟:塩冶時綱は生き残り子孫は出雲国に存続、後:出雲守護職京極政経から守護代を任ぜられた塩冶掃部介がいるが因幡塩冶氏については割愛。…山名時氏の代”正平(南朝1346ー70)/貞治(北朝1362ー68)”に
主郭西部南面の二段帯曲輪は主郭東部間の虎口まで延びる幕府から伯耆・丹波・丹後・因幡・美作の5ヶ国の守護職を得ているが、南北朝期や守護大名同士の抗争により山名氏勢力拡大に注力し、出石郡の此隅城を本拠として:各国内に城を築き朝来郡(武田城)に太田垣氏・養父郡(但馬八木城)に八木氏・気多郡(日高の楽々前城)に垣屋氏…因幡国境の但馬北西端:二方郡(新温泉町・芦屋城)に
虎口からの主郭部西曲輪:左端二段帯曲輪・ベンチ右手に櫓台?・井戸跡?塩冶氏を置いた。塩冶判官高貞没後は甥の塩冶通清の四男:周防守の子(孫)?某を祖として、但馬山名氏に仕え有力被官となった塩冶氏は「周防守」・「塩冶左衛門尉」・「塩冶肥前守」・「塩冶前野州太守」・「塩冶彦五郎」…の名が散見され、戦国時代に登場する芦屋城主・塩冶高清はその末裔であるとされます。
主郭部西端の櫓台と云われる露岩部頂からの諸寄漁港だが…!?南北朝期頃より続き恩賞として任命され与えられる官位官位「周防守」…が其の後も続いたものか?武家官位としての「周防守」が代々領国名として引き継いできたのか?不詳だが、芦屋の”龍潜寺”開基として祀られる芦屋城主塩冶周防守は天文8年(1539)に亡くなっている。因みに高清(周防守)の父:綱高は(若狭守・左衛門尉)・髙清の長男は安芸守。元亀2年(1571)塩冶肥前守(尼子方!・織田信長方)のとき
二ノ丸:帯曲輪からの虎口を中央曲輪に入る(通信施設か祠跡?)毛利方の因幡山名氏当主の豊数や鳥取城主:武田高信が、布施城に居た山名豊国が攻撃を察知し、豊国と通じ芦屋城に逃れ?、高信の嫡男・次男らが芦屋城を攻撃するが、塩冶勢には二方郡(美方郡温泉町…)の七釜城主田公筑前守・温泉(ゆの)城の奈良氏・指杭城主矢谷伯者守・栃谷城(おどろが城)塩冶左衛門ら援軍により撃退し
二ノ丸:主要曲輪南斜面の二重堀切逆に高信の息子二人を討取っている「庭中合戦」。但馬塩冶氏の末裔:戦国最後の芦屋城主塩冶(周防守)高清は天正8年(1580)羽柴秀吉の弟秀長による第2次但馬攻めに、共に山名氏配下の但馬水軍(根拠地は城崎の津居山・最盛期は丹後水軍・隠岐水軍としても隠岐・丹後・若狭に勢力を延ばしていた)の奈佐日本之介だが、
二ノ丸:二重堀切の下方に拡がる小曲輪群は?芦屋古城の遺物!?鳥取城の落城により山名豊国は秀吉に降伏した。周防守は山名氏の後:新たな鳥取城主毛利方の吉川経家を頼り因幡に逃れ、翌天正9年羽柴秀吉の鳥取城攻めでは鳥取城への兵糧輸送・備蓄基地としての”繋ぎの城”として機能した支城の雁金城・丸山城(奈佐日本之助の城)を重要視した秀吉は宮部継潤に命じ此れを攻撃させ、
主郭部東曲輪からの激急斜面北尾根筋からの浜坂漁港高清は此れをよく禦ぐが激戦に:いずれも落城し吉川経家は降伏・塩冶高清は丸山城に退くが此処で自刃します。後:高清の子:塩冶安芸守やその弟の塩冶高久は吉川氏家臣となり周防岩国に移った。芦屋城は其の後:鳥取城代となった宮部善祥坊継潤の持ち城となり、更に「関ケ原の戦い」に宮部氏が自害し後慶長10年(1605)
城山園地(駐車場)から散策道と芦屋城主郭部を望む山崎家盛が因幡・若桜(鬼ヶ城主)に入り、二方郡内6014石を分領された弟:宮城(右京進)頼久が芦屋城東山麓(芦屋)に陣屋を構え、寛永4年(1627)三代宮城主膳正豊嗣(頼久の嫡男)のとき、陣屋を芦屋から清富に移して芦屋陣屋は廃された。
【参照】但馬国ねっとで風土記(とよおか市民学芸員講座)・但馬の城ものがたり(塩冶氏と芦屋城)・
”兵庫県の中世城館・荘園遺跡”・郷土の城ものがたり(兵庫県学校厚生会)・現地:芦屋城案内板…
資料により年・人名等に差違があるが未確認 間違いはご容赦を…
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