三木合戦付城群Ⅰ プロローグ 三木市
西脇市から加東市・小野市まで出掛けることはあるが、三木市まで足を延ばすことは稀…なのだが中世城郭の探訪は粗三木合戦に関わる遺構・遺跡廻り…!?。
画像は掲載文に関連していないが毛利援軍により加古川-美嚢川へと兵糧搬入が未だ可能だった?・また周辺別所氏につく周辺領主の参戦警戒に充った第1期頃の付城…や合戦に双方の部将が討死した碑。
慈眼寺山裏山付城(有馬法印則頼)
三木合戦は三木城(釜山城)主:別所長治と織田信長の天下布武に中国地方の毛利征伐の大将:羽柴秀吉との軍議が決裂し、毛利方に付くかたちで叛く結果となり釜山城(三木城)に籠った別所長治を天正6年(1578)3月から天正8年1月の開城に至るまでの一年8ヶ月を秀吉軍が、毛利方や近隣領主等の援軍・兵糧搬入の路を断つ為に
三木SAから:加佐山上付城(杉原七郎左衛門家次)
三木城を取り囲み、付城と包囲網多重土塁(其の数に於いても総延長に於いても、此れまでの合戦に例を見ない壮大なもの)を築いた。兵糧攻めによる飢餓作戦三木の干殺しと呼ばれる凄惨な三木合戦は、信長が行った伊勢長島の一向宗との戦いや伊丹の荒木村重の叛逆に対し一族・婦女子を区別なく皆殺し・焼き殺した酷さ、
平田大村加佐合戦場慰霊碑と淡河弾正の墓(八幡森史跡公園)
明智光秀の丹波八上城攻めには城主波多野秀治・秀尚兄弟を和議を名目に本目城(神尾山城)に招き入れ捕え安土城に連行して自刃ではなく磔刑に処し・八上城に残った留守将:義弟の二階堂秀香ら籠城兵に対しても「三木の干し殺し」同様の飢餓作戦…に於いて、どちらも遜色ない 残忍で非情な行為に思えます。
谷大膳亮衛好の墓所:平田山陣所跡
三木城主:別所長治と八上城主:波多野秀治、波多野秀治と黒井城主:荻野直正とは姻戚関係にあり、また丹波黒井城・八上城を三好長慶・京都八木城主:内藤宗勝らが攻め入り旧領を追われた一時期別所氏を頼ってもいる。
朝日ヶ丘土塁(遊歩道内側の藪の中にも遺る包囲網多重土塁)天正3年荒田城合戦(赤松一族の新興勢力:別所重棟が旧赤松家臣:有田(在田?)氏を後の黒井城主荻野直正(朝日城主:才丸)等の連合軍で夜襲をかけ、多可郡の在田氏本拠の野間山城はじめ一族の諸城は悉く落城する。余談が長くなってしまったが…
鷹尾山城:勤労者体育センター側の土塁残欠と竪堀(堀切)播磨赤松家旧臣を凌駕した新興勢力とは云え別所氏=播磨国攻略だけに周到な秀吉による三木城包囲網(東西約6km・南北約5km範囲)に築かれた付城は確認されたもの23ヶ所(現存20ヶ所と云い推定約40ヵ所…に点在している様)に築かれたと考えられ、殊に三木城南側一帯には付城と付城間に土塁・多重土塁を設けている。
雲龍寺の別所長治公首塚と合祀される照子夫人(八上城主波多野秀治の妹)墓碑今回は三木市の郷土史家:M氏の案内・中世城郭研究家:高橋成計氏の報告を得て県遺跡地図(県考古博物館)に未調査・未確認遺構と思える”平田・加佐境ノ付城/鷹尾山城・宮ノ上要害直近(三木山総合運動公園バス停側)の付城?/八幡谷付城(三木山森林公園・総合公園の南下方の八幡谷交差点近く)…をUP予定…です。
画像は掲載文に関連していないが毛利援軍により加古川-美嚢川へと兵糧搬入が未だ可能だった?・また周辺別所氏につく周辺領主の参戦警戒に充った第1期頃の付城…や合戦に双方の部将が討死した碑。
慈眼寺山裏山付城(有馬法印則頼)
三木合戦は三木城(釜山城)主:別所長治と織田信長の天下布武に中国地方の毛利征伐の大将:羽柴秀吉との軍議が決裂し、毛利方に付くかたちで叛く結果となり釜山城(三木城)に籠った別所長治を天正6年(1578)3月から天正8年1月の開城に至るまでの一年8ヶ月を秀吉軍が、毛利方や近隣領主等の援軍・兵糧搬入の路を断つ為に
三木SAから:加佐山上付城(杉原七郎左衛門家次)
三木城を取り囲み、付城と包囲網多重土塁(其の数に於いても総延長に於いても、此れまでの合戦に例を見ない壮大なもの)を築いた。兵糧攻めによる飢餓作戦三木の干殺しと呼ばれる凄惨な三木合戦は、信長が行った伊勢長島の一向宗との戦いや伊丹の荒木村重の叛逆に対し一族・婦女子を区別なく皆殺し・焼き殺した酷さ、
平田大村加佐合戦場慰霊碑と淡河弾正の墓(八幡森史跡公園)
明智光秀の丹波八上城攻めには城主波多野秀治・秀尚兄弟を和議を名目に本目城(神尾山城)に招き入れ捕え安土城に連行して自刃ではなく磔刑に処し・八上城に残った留守将:義弟の二階堂秀香ら籠城兵に対しても「三木の干し殺し」同様の飢餓作戦…に於いて、どちらも遜色ない 残忍で非情な行為に思えます。
谷大膳亮衛好の墓所:平田山陣所跡
三木城主:別所長治と八上城主:波多野秀治、波多野秀治と黒井城主:荻野直正とは姻戚関係にあり、また丹波黒井城・八上城を三好長慶・京都八木城主:内藤宗勝らが攻め入り旧領を追われた一時期別所氏を頼ってもいる。
朝日ヶ丘土塁(遊歩道内側の藪の中にも遺る包囲網多重土塁)天正3年荒田城合戦(赤松一族の新興勢力:別所重棟が旧赤松家臣:有田(在田?)氏を後の黒井城主荻野直正(朝日城主:才丸)等の連合軍で夜襲をかけ、多可郡の在田氏本拠の野間山城はじめ一族の諸城は悉く落城する。余談が長くなってしまったが…
鷹尾山城:勤労者体育センター側の土塁残欠と竪堀(堀切)播磨赤松家旧臣を凌駕した新興勢力とは云え別所氏=播磨国攻略だけに周到な秀吉による三木城包囲網(東西約6km・南北約5km範囲)に築かれた付城は確認されたもの23ヶ所(現存20ヶ所と云い推定約40ヵ所…に点在している様)に築かれたと考えられ、殊に三木城南側一帯には付城と付城間に土塁・多重土塁を設けている。
雲龍寺の別所長治公首塚と合祀される照子夫人(八上城主波多野秀治の妹)墓碑今回は三木市の郷土史家:M氏の案内・中世城郭研究家:高橋成計氏の報告を得て県遺跡地図(県考古博物館)に未調査・未確認遺構と思える”平田・加佐境ノ付城/鷹尾山城・宮ノ上要害直近(三木山総合運動公園バス停側)の付城?/八幡谷付城(三木山森林公園・総合公園の南下方の八幡谷交差点近く)…をUP予定…です。
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