三木合戦付城群Ⅱ 平田山城と平田・加佐境ノ付城

天正6年(1578)織田信長命による羽柴秀吉の中国:毛利討伐に播磨の領主らを加古川城に招集した軍議「加古川評定」の際、秀吉に従っていた別所長治だが・代理で出席していた信長を不信の毛利贔屓・名門意識の強い叔父:別所賀相(吉親)や家老三宅治忠等により軍議が決裂。三木城支城の野口城(加古川市)等は最初の攻撃目標と
       三木城本丸北面の切岸崖!!
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なったものか!。長治の叔父:吉親(弟に重棟)の説得に信長から離反し三木城に籠城する三木合戦に、吉親ともに長治を補佐していた重棟は浪人するが秀吉に付き、三木城包囲の守将として「鳥町村河原付城?」(未訪:詳細不知)に入り、三木城終焉に別所長治・吉親・友之(長治の弟)に切腹を勧める使者となり三木城は開城された。
      平井山ノ上付城(秀吉の本陣)
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三木合戦の付城築城時期は文献史料によると3期(合戦の序盤・中盤・終盤)に分けられ、時期に応じて構築される付城の特徴も異なっており段階を踏みつつ「三木の干し殺し」を完結させていく推移も理解できる稀有な遺跡群として、三木城付城や包囲多重土塁は国史跡(平成25年3月27日)指定されている。
        三木城二ノ丸に建つ旧校舎跡(埋蔵文化財展示室)
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第1期:天正6年(1578)7月神吉城を落とした織田信忠以下の大軍が美嚢川を隔て北方の丘陵部に平井山本陣以下の付城群を築く。山の地形に合わせて曲輪を上下に連ねる構造のものが多く、背後の尾根続きに対して堀切などが殆ど見られず遮断防御はあまり意識されていないのは、川を隔てて比較的安全な地域に築かれた為とされる。【三木市立みき歴史資料館Web資料】 
     竹中半兵衛廟所:平井村中村間ノ山付城は(伝)竹中半兵衛陣所
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三木合戦付城群Ⅰ プロローグに挙げた第1期付城の北西方には天正7年合戦があり、未だ毛利援軍の兵糧搬入が可能だった時期!?だか第2期に分類される?付城群がある。谷大膳平田山陣から山陽自動車道三木SA付近の平田山上ノ付城加佐山上付城間に2-3点在する平田村山上ノ付城?と平田・加佐境ノ付城を紹介。
       三木SA立寄駐車場向いが平田・加佐境ノ付城スタート地点
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平田大村合戦は天正7年(1579)5月には織田方に叛いた伊丹城主で神戸:花隈城から来ていた荒木村重や毛利方の兵らによる大兵糧輸送基地ともなっていた丹生山城が秀吉方に焼討ちされ、断たれた補給ルート奪還のため天正7年(1579)9月10日手薄の”平田の砦”に毛利の援軍が夜襲をかけ、織田軍の谷大膳亮衛好らが
         平田・加佐境ノ付城主曲輪の西端櫓台曲輪?)
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奮戦したが10日の黎明(明け方)此の地で兄・弟・甥の二人!?の谷一族五名は討死し墓碑が立つ。谷大膳墓所の背後の丘陵上に包囲網土塁!?が延びているが、此の尾根筋終端となる山陽自動車道三木SAの立寄り駐車場に着くまでの、何カ所かに曲輪や土塁遺構をみる。三木市郷土史家「三木飛行場を記憶する会」主催M氏の案内と
  平田村山ノ上付城の付近!?単郭だが広い方形曲輪と北東面の崖
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調査図面により三木SA近く:山上部(134m)の平坦段を平田・加佐境ノ付城・此れより藪尾根を下っていけば谷大膳墓所に至る120m付近には片面が崖の単郭・尾根に残る削り残し大土塁?・其の下方に2段程の曲輪…等遺構を平田村山ノ上付城(?2-3ヶ所に点在A/B/C表記すべきか?)と仮称する。訪城レポートがあるので此処では省略します。ブログホームページを参照して下さい。

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