三木合戦付城群Ⅳ 福井八幡谷付城(仮称)

R175号を南下し「道の駅みき」前を抜ける西には三木ホースランドパーク・直ぐ先の福井ランプを東に向かえば”明石道峯構付城・歴史の森”や三木山森林公園があり、三木山森林公園南下の八幡谷交差点近くが今回の目的地。県道22号(明石道!)は一国一城令により破却された三木城の解体建材を明石城の築城材に転用し、
  八幡谷付城:土塁囲み曲輪南西の開口部は広い西曲輪?・南段曲輪からの虎口か?・破壊か?
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明石道(三木城上の丸から三木本町を通り抜ける県道22号(神戸三木線)より運び出された道?か。三木山森林公園の西方には八幡谷ノ上明石道付城があり「鶯谷」(三木山森林公園ハイキングコース鶯谷入口があり10m程登れば後は森林公園へ降るだけの遊歩道…!?)三叉路交差点を左折するとR175号「福井ランプ」手前には
     県道22号線八幡谷交差点:左折は三木山総合公園・右手に閉鎖状態?駐車場と付城
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明石道峯構付城がある。県道22号線「鶯谷」を東南へ直進し約400m程に城山町公民館…”城山…xx!”とあるが周辺に遺跡分布図:城砦遺構記載はない。八幡谷交差点を越えると白川道?沿いの二位谷奥付城で源平合戦に義経が通った義経道。城山公民館の直ぐ前方に珈集があり駐車場東端から三木山森林公園分岐「八幡谷」交差点まで
      県道22号線八幡谷交差点から:閉鎖状態?駐車場の左前方コーナー付近に主曲輪
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県道22号沿い東西に幅広く深い藪の谷が南斜面に落ち込む。対岸(東丘陵部)の荒れた雑木藪内の土塁状は自然の切岸?とも思えず道路拡幅工事によるものか?侵入口を探すが繁茂する藪地に踏跡なし。イベント用?か長い駐車場西端に出るが駐車場は閉鎖状態。駐車場の東端は「八幡谷」交差点まで延びている。
        八幡谷付城:土塁は主曲輪北方の内側
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付城群Ⅱ平田山城と平田・加佐境ノ付城(仮称)・付城群Ⅲ三木山森林公園鉄塔口砦(仮称)を付城群Ⅳでは城郭研究「城郭談話会」会員の高橋成計氏から此の付城名称と調査図面をいただき福井八幡谷付城(仮称)を後追い訪城した。天正6年(1578)中国:毛利討伐の総大将:羽柴秀吉が播磨の領主らを招集した「加古川評定」に
     土塁南西端の開口?部:土塁は北東上に延び右手は南から東へ帯曲輪
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三木城主:別所長治の叔父:別所賀相(吉親)や家老三宅治忠等により軍議が決裂。秀吉に従っていた長治だが叔父:吉親の説得に信長から離反し三木合戦が勃発。秀吉軍の三木城包囲網(東西約6km・南北約5km範囲)には文献史料から築かれた付城は確認されたもの23ヶ所(現存20ヶ所と云い推定約40ヵ所に点在している)あり、
      付城主曲輪内:荒れた不整地(畑等改変跡か?)だが低土塁囲み!
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殊に三木城南側一帯には付城と付城間に土塁・多重土塁を設けられている。付城群は付城築城時期に応じて特徴も異なっており段階を踏み乍ら包囲の飢餓作戦「干し殺し」を完結させていく推移も理解できるものとして国史跡(平成25年3月27日)指定を受けている遺跡群は、時期や特徴から3期に分けられ第1期は天正6年(1578)7月
      土塁東側中央部虎口!:東北側から入る長い堀底道?は第3期!の土塁線?
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~織田信忠以下の大軍が美嚢川を隔て北方の丘陵部に平井山本陣以下の付城群を築いた頃・第2期は翌7年4月~信忠以下が再度播磨に入り付城6箇所等を築く(信長公記)”高木大塚城や小林八幡神社付城…等”とある。第3期(天正7年10月)の付城群はさらに包囲を狭め、尾根全体を城郭化した八幡谷ノ上明石道付城跡など大軍勢が
      付城東端の土塁切岸と外曲輪?…上右端は駐車場跡?
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駐屯可能な付城を中心として主要街道を押さえ、力攻めを意識したまさに最前線の付城群と評価できる。「三木市立みき歴史資料館Web資料を参照) 
三木合戦付城群Ⅱ-Ⅳに未確認・未検証(仮称)で挙げた付城では、三木城域(鷹尾山城・宮ノ上要害)に超最近接する「三木山森林公園鉄塔口砦(仮称)」の後方に控える
  県道22号フエンスから覗く左:付城側急斜面・右は西端カフェまで約40m幅広の深い谷
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君ヶ峰城・二位谷奥付城・八幡谷ノ上明石道付城は最前線基地として、此の福井八幡谷付城も第3期(天正7年10月)付城群として主要街道を押さえ:大軍勢の駐屯を可能にして一気に侵攻・突入可能な力攻めを意識した付城群と推測できる…。尚:近く小林八幡神社付城は城主不明だが第2期に築かれたものと推察されている。

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