河原町界隈 Ⅰ河原町商家群 篠山市
丹波地方には余り馴染みがない?が篠山市にフットケアサロンがオープンして5年程だが…最近知って月1ペースで妻の通院に付き合うことになりそう。篠山城南外濠の南東角から東へ直進してジャスミンテイマの前を通り、”白殻五粉(パン屋)”を抜ければ河原町交差点。
電柱風景が消えた現:河原町通り1
正面の「河原町通り」には左右に見慣れた町家(古民家)・商家群が立ち並ぶ”篠山市内観光のメイン?スポット”で、いま通り抜けてきた小川町・河原町交差点北の立町に小田垣商店(黒豆)や恵山(ギャラリー)等はイベント会場に設定される町屋でもある。「河原町通り」を中心として篠山伝統的建造物群保存地区になっているが、
電柱風景が消えた現:河原町通り2
此の通りに限って?は「河原町妻入商家群」と紹介されるようです。通りに面して間口を狭く取り、奥行きはほぼ一定で奥に長い縦長の京都の町家(商家)にも敷地形状から”うなぎの寝床”と表現されている建築群だが、小田垣商店のように河原町通りにも数軒の平入町屋も残っている。
妻入りに挟まれ平入り商家(町屋ギャラリー尚古堂)・手前は喫茶&宿の店舗型町屋見慣れた商家群だが2021年に2021年には埋設式工事で電柱がスッキリ撤去され町並みの景観・雰囲気も良くなったが、地元にとっての悦びは春日神社秋の大祭に各町の鉾蔵や自治会館等に飾られていた「鉾」がやっと日の目を見て山車の屋根に取付けられた鉾の復活は…感激も一入。
目的のフットケアサロンは篠山川に架かる京口橋を北に入った河原町通りの東端。篠山城下から京都に向かうスタート地点の京口だが八上城下を福住・天引峠を越え亀岡・京都へ、篠山・山陽播磨・摂津三田尼崎方面・但馬山陰方面に繫がる篠山街道(京街道・デカンショ街道)R372号沿いの要衝だが、
以前の河原町通り 1
天正7年八上城が落城・慶長14年(1609)家康の実子:松平康重が入封され新築の篠山城に移った。篠山城築城地の候補に挙がった一つが王地山。八上の城下町にあった誓願寺・観音寺…等寺院や商家は「町割り」された篠山城下に移された。
以前の河原町通り 2
天下普請の篠山城は”表向き”大手口を北に設けているが大阪城や豊臣恩顧の但馬・山陰はじめ西日本の大名の分断を狙ったもの。京街道が篠山城下を通るようになったか?は不詳ながら公道とはいえ柏原・但馬方面の藩主らが参勤交代で、
誓願寺と町屋(旧山里料理 まえ川)の虫籠窓
301号(本郷東浜谷線)ならまだしも河原町通りに繫がる篠山城大手前を通ったものか?。街道沿い(河原町通り)を抜けると県道702号(篠山京丹波線)沿いに細工所から福住へ…通じ、河川渡河も比較的楽かも?。
商家としての町屋は表土間を構え敲きの通り土間で中庭や奥の居住空間を繋ぐ
金も時間も掛る城下の通過:ある事件が契機で神戸市街地を通らず六甲山中を抜けた徳川道の例もあるが…また藩政時代の面影を色濃く残す”妻入り商家”は間口の広さによって課税されていたため、敷地の間口いっぱいに建てられ、奥に長い間取りを持つことになった。
電柱風景が消えた現:河原町通り1
正面の「河原町通り」には左右に見慣れた町家(古民家)・商家群が立ち並ぶ”篠山市内観光のメイン?スポット”で、いま通り抜けてきた小川町・河原町交差点北の立町に小田垣商店(黒豆)や恵山(ギャラリー)等はイベント会場に設定される町屋でもある。「河原町通り」を中心として篠山伝統的建造物群保存地区になっているが、
電柱風景が消えた現:河原町通り2
此の通りに限って?は「河原町妻入商家群」と紹介されるようです。通りに面して間口を狭く取り、奥行きはほぼ一定で奥に長い縦長の京都の町家(商家)にも敷地形状から”うなぎの寝床”と表現されている建築群だが、小田垣商店のように河原町通りにも数軒の平入町屋も残っている。
妻入りに挟まれ平入り商家(町屋ギャラリー尚古堂)・手前は喫茶&宿の店舗型町屋見慣れた商家群だが2021年に2021年には埋設式工事で電柱がスッキリ撤去され町並みの景観・雰囲気も良くなったが、地元にとっての悦びは春日神社秋の大祭に各町の鉾蔵や自治会館等に飾られていた「鉾」がやっと日の目を見て山車の屋根に取付けられた鉾の復活は…感激も一入。
目的のフットケアサロンは篠山川に架かる京口橋を北に入った河原町通りの東端。篠山城下から京都に向かうスタート地点の京口だが八上城下を福住・天引峠を越え亀岡・京都へ、篠山・山陽播磨・摂津三田尼崎方面・但馬山陰方面に繫がる篠山街道(京街道・デカンショ街道)R372号沿いの要衝だが、
以前の河原町通り 1
天正7年八上城が落城・慶長14年(1609)家康の実子:松平康重が入封され新築の篠山城に移った。篠山城築城地の候補に挙がった一つが王地山。八上の城下町にあった誓願寺・観音寺…等寺院や商家は「町割り」された篠山城下に移された。
以前の河原町通り 2
天下普請の篠山城は”表向き”大手口を北に設けているが大阪城や豊臣恩顧の但馬・山陰はじめ西日本の大名の分断を狙ったもの。京街道が篠山城下を通るようになったか?は不詳ながら公道とはいえ柏原・但馬方面の藩主らが参勤交代で、
誓願寺と町屋(旧山里料理 まえ川)の虫籠窓
301号(本郷東浜谷線)ならまだしも河原町通りに繫がる篠山城大手前を通ったものか?。街道沿い(河原町通り)を抜けると県道702号(篠山京丹波線)沿いに細工所から福住へ…通じ、河川渡河も比較的楽かも?。
商家としての町屋は表土間を構え敲きの通り土間で中庭や奥の居住空間を繋ぐ
金も時間も掛る城下の通過:ある事件が契機で神戸市街地を通らず六甲山中を抜けた徳川道の例もあるが…また藩政時代の面影を色濃く残す”妻入り商家”は間口の広さによって課税されていたため、敷地の間口いっぱいに建てられ、奥に長い間取りを持つことになった。



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