河原町界隈 Ⅳ 稲荷社の頼尊又四郎 壱 篠山市
河原町通りを東に向かっていると、通りに面した北側に”妙長山本経寺”山門柱と石畳・石段の上には扁額の掛る山門が建つ。王地山公園に繫がる狭い車道の向いに妙長山 本経寺(日蓮宗)がある。境内本堂東隣の庫裏?前小スペースは現状:石敷の駐車スペースになっているが、以前:此処に
王地山公園:旧国民宿舎ささやま荘北向いの王地山まけきらい稲荷側を望む「負け嫌い稲荷」イメージの化粧回しを着けた狐の像があった。此の狐像と本経寺については「河原町界隈 Ⅲ 王地山と負け嫌い稲荷社」に簡単には触れているが、山号は”妙長山 本経寺”だったはずだが神社が!?山号「王地山 まけきらい稲荷」・寺は本院「本経寺」となっている。
経緯は知らないが神仏混淆の本山・奥の院との関係?や上河原町の庚申堂や王地山公園周辺の庚申塔・庚申塚(青面金剛・猿田彦大神…を祀る)等の神仏習合関連も考察要かも…。明治維新の廃仏毀釈が此処にきて逆転しているような現象ですかね?
篠山城築城完成で八上藩から藩庁が篠山藩へ移行され(松井)松平康重が初代藩主となり元和5年(1619)和泉岸和田藩に移封されると代って常陸国土浦から2代藩主(藤井)松平信𠮷が転封すると本経寺(徳川家康の異父妹:実母の菩提を弔うため土浦に建立した本門寺の末寺)と土浦城に祀られてた稲荷大明神像も篠山に移された。
寺は山号を其のまま現在地に移築建立され京都大本山妙顕寺の末寺に入り、稲荷大明神像は奥の院として王地山に勧進された。信𠮷は翌年京都で病死・子の忠国に継がれ慶安2年(1649)明石城に転封となるが、本経寺・奥の院:王地山稲荷社ともに現在地に留まる事を許され同年:篠山藩4代目(形原)松平康信が高槻3万6千石から
八力士を引率した頭取が高城市松(高城=高城山=八上城) 篠山藩5万石で入封され5代信岑(のぶみね)が寛延元年(1748)亀山藩に移封、亀山藩から篠山藩9代藩主として青山忠朝が入封(青山家は6代まで続き明治維新を迎える…)青山家4代目青山忠裕(ただやす)の時には1万石加増され6万石となっている。
王地山稲荷社への赤鳥居のトンネル参道古丹波・丹波焼の名で隠れているが名工の誉れ高い”欽古堂亀祐”を京都から招き指導させた藩窯の”王子山焼”(青磁)窯を開き、義人:市原清兵衛に直訴を受け丹波杜氏として出稼ぎ(百日稼ぎ)を認めたのも忠裕です。形原松平家・青山家…と歴代篠山藩主の帰依を受けて現在に至っています。
西方寺のサザンカの巨木と市原清兵衛顕彰碑王地山負け嫌い稲荷の伝説は青山忠裕が江戸幕府老中を務め、両国の回向院で催される将軍(徳川家斉)御上覧の大相撲があったが、篠山藩お抱えの力士達はいつも成績が悪く…相撲のこととなると負け嫌いな藩主は不機嫌であった…(詳細は負け嫌い稲荷の伝説)・また化身した力士達は篠山領内に散存する稲荷社の地名。
旧西紀町黒田:黒田山兵衛(前頭)稲荷神社
力士の一人に亀山藩領(船井郡)に前頭の須知山道観がいるが藩主青山家は篠山藩・亀山藩の藩境の一部(天引き峠を下ってきた福住の安口(はだかす)付近)には年隔交互に境界線がどちらかに移動する時期があった…?。次回はもう一人・稲荷社の地名が四股名に無い頼尊又四郎に絞ってスポットを当ててみたい。
王地山公園:旧国民宿舎ささやま荘北向いの王地山まけきらい稲荷側を望む「負け嫌い稲荷」イメージの化粧回しを着けた狐の像があった。此の狐像と本経寺については「河原町界隈 Ⅲ 王地山と負け嫌い稲荷社」に簡単には触れているが、山号は”妙長山 本経寺”だったはずだが神社が!?山号「王地山 まけきらい稲荷」・寺は本院「本経寺」となっている。
経緯は知らないが神仏混淆の本山・奥の院との関係?や上河原町の庚申堂や王地山公園周辺の庚申塔・庚申塚(青面金剛・猿田彦大神…を祀る)等の神仏習合関連も考察要かも…。明治維新の廃仏毀釈が此処にきて逆転しているような現象ですかね?
篠山城築城完成で八上藩から藩庁が篠山藩へ移行され(松井)松平康重が初代藩主となり元和5年(1619)和泉岸和田藩に移封されると代って常陸国土浦から2代藩主(藤井)松平信𠮷が転封すると本経寺(徳川家康の異父妹:実母の菩提を弔うため土浦に建立した本門寺の末寺)と土浦城に祀られてた稲荷大明神像も篠山に移された。
寺は山号を其のまま現在地に移築建立され京都大本山妙顕寺の末寺に入り、稲荷大明神像は奥の院として王地山に勧進された。信𠮷は翌年京都で病死・子の忠国に継がれ慶安2年(1649)明石城に転封となるが、本経寺・奥の院:王地山稲荷社ともに現在地に留まる事を許され同年:篠山藩4代目(形原)松平康信が高槻3万6千石から
八力士を引率した頭取が高城市松(高城=高城山=八上城) 篠山藩5万石で入封され5代信岑(のぶみね)が寛延元年(1748)亀山藩に移封、亀山藩から篠山藩9代藩主として青山忠朝が入封(青山家は6代まで続き明治維新を迎える…)青山家4代目青山忠裕(ただやす)の時には1万石加増され6万石となっている。
王地山稲荷社への赤鳥居のトンネル参道古丹波・丹波焼の名で隠れているが名工の誉れ高い”欽古堂亀祐”を京都から招き指導させた藩窯の”王子山焼”(青磁)窯を開き、義人:市原清兵衛に直訴を受け丹波杜氏として出稼ぎ(百日稼ぎ)を認めたのも忠裕です。形原松平家・青山家…と歴代篠山藩主の帰依を受けて現在に至っています。
西方寺のサザンカの巨木と市原清兵衛顕彰碑王地山負け嫌い稲荷の伝説は青山忠裕が江戸幕府老中を務め、両国の回向院で催される将軍(徳川家斉)御上覧の大相撲があったが、篠山藩お抱えの力士達はいつも成績が悪く…相撲のこととなると負け嫌いな藩主は不機嫌であった…(詳細は負け嫌い稲荷の伝説)・また化身した力士達は篠山領内に散存する稲荷社の地名。
旧西紀町黒田:黒田山兵衛(前頭)稲荷神社
力士の一人に亀山藩領(船井郡)に前頭の須知山道観がいるが藩主青山家は篠山藩・亀山藩の藩境の一部(天引き峠を下ってきた福住の安口(はだかす)付近)には年隔交互に境界線がどちらかに移動する時期があった…?。次回はもう一人・稲荷社の地名が四股名に無い頼尊又四郎に絞ってスポットを当ててみたい。
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