河原町界隈 Ⅴ 稲荷社の頼尊又四郎 弐 篠山市
篠山観光スポット:河原町通りの商家群を東に向かっていると妙長山 本経寺の 山門石柱を見る。本経寺社務所前にあった「力士の狐像」は寺の奥の院王地山稲荷社本殿に相対して祀られる小さな厨子”王地山平左衛門稲荷社”の脇に遷されている。
以前は本経寺社務所前にあった「力士の狐像」本経寺と守護神:稲荷社が篠山藩主として入封した2代目:(藤井)松平安房守信吉により王地山に移築勧進され、其の後も現在地に留まり・次代(形原)松平康信…さらに青山氏へと歴代篠山藩主の帰依を得て存続。
「負け嫌い稲荷」の伝説は12代篠山藩青山家4代青山下野守忠裕(就任期:天明元年ー天明5年)の話として伝えられる。篠山藩2代:藤井松平信吉の時に建てられた妙長山本経寺だが病気で翌年他界したが、庫裏(社務所!)前に在った「力士の狐像」は篠山藩
本経寺の力士狐像は「負け嫌い稲荷社」主神?:平左衛門稲荷前に鎮座
第4代形原松平守康信(慶安2年ー寛文9年)のもとに身を寄せていた甥の松平又四郎が頼尊又四郎のモデル。宮田地区の光照寺背後に松平阿房守信孝の供養碑がある。父は篠山藩形原松平家2代典信なのだが…信孝が篠山の地に夫妻と家族と思える一族?の墓碑があるが此処に遺されていること・篠山藩とのつながり一切不詳です?。
(三河国)松平家初代の松平信孝と家族?の墓碑
台東区下谷の英信寺(康信の三男:英信の菩提寺で滝脇松平家初代:信孝)に祀られるが、形原松平家歴代菩提寺は亀岡の光忠寺。後継の藩主:青山家菩提寺の蟠龍庵は元:松平家菩提所光忠寺。篠山藩が国替えで青山家・松平氏は亀山(亀岡市)に転封の際全て亀岡の光忠寺に移され…篠山藩・亀岡藩は藩主を交互に務めたよう?。
三河の武将:松平信孝公の不運(悲運)に対し松平氏縁故による菩提碑が亀岡市に移されることなく此処に残ったものか?。篠山藩4代:形原松平家初代:康信のもとに身を寄せていた甥の又四郎は藩主:松平家の権威を笠に奔放無頼な生活を続け
頼尊又四郎稲荷神社家中から恐れられ・康信も直接間接に意見をするが改まらず、家名を重んじてか?不憫ながら万治2年(1659)10月:波々伯部神社へ代参を口実に途中を家臣に惨殺させた。しかし町民たちは若くして惨死した又四郎を哀れみ:現場を清めて地蔵尊を安置し祀ったのが血寄地蔵です。
血寄地蔵(八上上宿:上宿公民館の西端道路脇)其の後も:剛勇闊達さ・溢れるような生気を称えていた又四郎は篠山城東馬出の東方・篠山城東外堀となる黒岡川右岸に頼尊又四郎稲荷神社として乙姫龍王社ととも習合(神や仏として)祀り、また此処は篠山城の鬼門にあたり:除災と繁栄をも祈ったものでしょう。松平又四郎が稲荷社として祀られたことで、江戸両国の回向院
小田中清五郎稲荷神社の”まけきらい稲荷”力士絵馬(背後に稲荷山古墳)広場での将軍(徳川家斉)上覧大相撲で大活躍をし、時の老中で篠山城主:青山忠裕を大喜びさせたという王地山平左衛門ら一行8名の力士の説話に「頼尊又四郎」(東新町の稲荷)前頭xx何枚目かまでは知らず!?だが”負け嫌い稲荷”として稲荷山名か里名?を「賴尊」として登場する。各所の”負け嫌い稲荷社”には「丹波篠山五十三次xxxxx」案内板が立てられている筈!?
以前は本経寺社務所前にあった「力士の狐像」本経寺と守護神:稲荷社が篠山藩主として入封した2代目:(藤井)松平安房守信吉により王地山に移築勧進され、其の後も現在地に留まり・次代(形原)松平康信…さらに青山氏へと歴代篠山藩主の帰依を得て存続。
「負け嫌い稲荷」の伝説は12代篠山藩青山家4代青山下野守忠裕(就任期:天明元年ー天明5年)の話として伝えられる。篠山藩2代:藤井松平信吉の時に建てられた妙長山本経寺だが病気で翌年他界したが、庫裏(社務所!)前に在った「力士の狐像」は篠山藩
本経寺の力士狐像は「負け嫌い稲荷社」主神?:平左衛門稲荷前に鎮座
第4代形原松平守康信(慶安2年ー寛文9年)のもとに身を寄せていた甥の松平又四郎が頼尊又四郎のモデル。宮田地区の光照寺背後に松平阿房守信孝の供養碑がある。父は篠山藩形原松平家2代典信なのだが…信孝が篠山の地に夫妻と家族と思える一族?の墓碑があるが此処に遺されていること・篠山藩とのつながり一切不詳です?。
(三河国)松平家初代の松平信孝と家族?の墓碑
台東区下谷の英信寺(康信の三男:英信の菩提寺で滝脇松平家初代:信孝)に祀られるが、形原松平家歴代菩提寺は亀岡の光忠寺。後継の藩主:青山家菩提寺の蟠龍庵は元:松平家菩提所光忠寺。篠山藩が国替えで青山家・松平氏は亀山(亀岡市)に転封の際全て亀岡の光忠寺に移され…篠山藩・亀岡藩は藩主を交互に務めたよう?。
三河の武将:松平信孝公の不運(悲運)に対し松平氏縁故による菩提碑が亀岡市に移されることなく此処に残ったものか?。篠山藩4代:形原松平家初代:康信のもとに身を寄せていた甥の又四郎は藩主:松平家の権威を笠に奔放無頼な生活を続け
頼尊又四郎稲荷神社家中から恐れられ・康信も直接間接に意見をするが改まらず、家名を重んじてか?不憫ながら万治2年(1659)10月:波々伯部神社へ代参を口実に途中を家臣に惨殺させた。しかし町民たちは若くして惨死した又四郎を哀れみ:現場を清めて地蔵尊を安置し祀ったのが血寄地蔵です。
血寄地蔵(八上上宿:上宿公民館の西端道路脇)其の後も:剛勇闊達さ・溢れるような生気を称えていた又四郎は篠山城東馬出の東方・篠山城東外堀となる黒岡川右岸に頼尊又四郎稲荷神社として乙姫龍王社ととも習合(神や仏として)祀り、また此処は篠山城の鬼門にあたり:除災と繁栄をも祈ったものでしょう。松平又四郎が稲荷社として祀られたことで、江戸両国の回向院
小田中清五郎稲荷神社の”まけきらい稲荷”力士絵馬(背後に稲荷山古墳)広場での将軍(徳川家斉)上覧大相撲で大活躍をし、時の老中で篠山城主:青山忠裕を大喜びさせたという王地山平左衛門ら一行8名の力士の説話に「頼尊又四郎」(東新町の稲荷)前頭xx何枚目かまでは知らず!?だが”負け嫌い稲荷”として稲荷山名か里名?を「賴尊」として登場する。各所の”負け嫌い稲荷社”には「丹波篠山五十三次xxxxx」案内板が立てられている筈!?
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