円通寺 Ⅱ あおもみじ 丹波市
永谷山円通寺(曹洞宗)の正式名は円通興国禅寺…「境内の永谷山円通寺由来記…を参考に」1382年南北朝期の(北朝:後円融天皇の永徳2年)(南朝:長慶天皇の弘和2年)1月後円融天皇の勅命により3代将軍足利義満が創建した名刹。
年号の首字を採って永谷山と号し天子の宝号により円通寺と名付けて勅願所と定め、開山に迎えた英仲法俊は足利尊氏の第4子、後円融天皇の勅願所ともなり次の天皇:後小松帝も英仲禅師に帰依し自ら刻まれた如意輪観音が本尊。境内の本堂・
本坊等堂宇を囲う白壁(薄墨色)塀と白の五本線は天皇家との所縁を表わす。薄墨色の塀の瓦や本堂の流れ向拝屋根の頭上:大棟や庫裏の襖には”丸に二つ引両”の足利家紋・関白:近衛家の”近衛牡丹”紋が揚がる。二世牧翁性欽は将軍・関白と
深い因縁を結び寺領1500石・200余りの末寺を有して丹波はもとより但馬・播磨・摂津にかけて君臨し益々栄えた名刹の曹洞宗の中本山。丹波の諸寺の多くが織田信長(天下布武)命:丹波攻略では明智の軍勢により寺社仏閣が悉く焼き払われていくが、丹波守護職仁木頼章の時の守護代(建武4ー康永2(1343):荻野朝忠の子孫で
豪士(地の代官だったか?)荻野喜右衛門が天正3年柏原八幡宮を明智の軍勢が焼討ちし円通寺に迫るなか…横田の十六丁畷付近か?(十六丁畷は霧山城西山麓:市辺に遺る加古川治水の土木工事で元和9年(1623)頃:意春上人が由良荘の領主:
霧山城と市辺・横田(氷上IC付近)の十六丁畷
別所吉治の支援を得て竣工)辺りに迎えて、円通寺の焼討ちを必死に諌め説得した働きにより兵火を免れたとも伝えられる。この寺の荘厳さと歴史に、暴挙慎みの令を公布した光秀直筆の禁制と「下」」札が寺宝として当山に遺されている。
年号の首字を採って永谷山と号し天子の宝号により円通寺と名付けて勅願所と定め、開山に迎えた英仲法俊は足利尊氏の第4子、後円融天皇の勅願所ともなり次の天皇:後小松帝も英仲禅師に帰依し自ら刻まれた如意輪観音が本尊。境内の本堂・
本坊等堂宇を囲う白壁(薄墨色)塀と白の五本線は天皇家との所縁を表わす。薄墨色の塀の瓦や本堂の流れ向拝屋根の頭上:大棟や庫裏の襖には”丸に二つ引両”の足利家紋・関白:近衛家の”近衛牡丹”紋が揚がる。二世牧翁性欽は将軍・関白と
深い因縁を結び寺領1500石・200余りの末寺を有して丹波はもとより但馬・播磨・摂津にかけて君臨し益々栄えた名刹の曹洞宗の中本山。丹波の諸寺の多くが織田信長(天下布武)命:丹波攻略では明智の軍勢により寺社仏閣が悉く焼き払われていくが、丹波守護職仁木頼章の時の守護代(建武4ー康永2(1343):荻野朝忠の子孫で
豪士(地の代官だったか?)荻野喜右衛門が天正3年柏原八幡宮を明智の軍勢が焼討ちし円通寺に迫るなか…横田の十六丁畷付近か?(十六丁畷は霧山城西山麓:市辺に遺る加古川治水の土木工事で元和9年(1623)頃:意春上人が由良荘の領主:
霧山城と市辺・横田(氷上IC付近)の十六丁畷
別所吉治の支援を得て竣工)辺りに迎えて、円通寺の焼討ちを必死に諌め説得した働きにより兵火を免れたとも伝えられる。この寺の荘厳さと歴史に、暴挙慎みの令を公布した光秀直筆の禁制と「下」」札が寺宝として当山に遺されている。
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