生野義挙Ⅰ 生野代官所 朝来市

JR播但線生野駅から口銀谷(かなや)交差点R429号へ向かう途中:駐車場側に生野代官所跡・生野義挙跡の石碑をみる。文久3年(1863)8月大和国五條代官所を天誅組が襲撃”攘夷親政の魁”となった天誅組の変(大和の乱)による幕末最初の倒幕の狼煙は勤皇の志士達の倒幕意識を奮い起たせたが幕府諸藩の兵力に押さえ込まれた。
       生野義挙の碑(生野代官所跡) 
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明治維新の先魁となり全国に拡がり、天誅組の大和義挙に呼応した尊王攘夷派により各地に倒幕運動が起こり、但馬生野でも倒幕の挙兵が計画され文久3年(1863)10月勤皇の志士らが挙兵し生野代官所を占拠して陣し即日、農兵を募り朝来・養父等郡部から数千人が生野に集結した”生野義挙(但馬の変)の地でもある。
         生野代官所(生野平城跡)のモニュメント   
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しかし必要な武器・銃器の調達が遅れた事や計画中止か続行かについて意見が対立したことで、総帥:公卿の沢(主水正)宣嘉卿や此れに従った志士等も脱出して計画中止と全員の退去が決定した。徹底抗戦派だった南八郎・戸原卯橘らは朝来郡山口村の妙見堂(山口城)や山麓西念寺(山口護国神社)に布陣して豊岡藩・出石藩の
         楠邸(地役人邸の様式をもつ町屋)     
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出陣に備えていたが、計画が瓦解したことを知った農兵達に竹槍・鉄砲で追い立てられ、ついには十三人が自決し他の者も射殺されたり捕縛され、僅か3日で鎮圧され破陣して天誅組の大和義挙同様:生野挙兵も失敗し壊滅。此の”早すぎた官軍”尊王攘夷を掲げてた義挙は失敗したが5年後に”明治維新”を迎える。
      生野古城:”びわの丸”から市川沿い生野の街並み   
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