生野義挙Ⅱ 山口護国神社 朝来市

先の生野義挙Ⅰの口銀谷:生野代官所…で文久3年(1863)10月勤皇の志士らが挙兵し生野代官所を占拠し、朝来・養父等郡内周辺から農兵を募り数千人が生野に集結した生野義挙(但馬の変)の地を紹介した。文久3年(1863)8月に尊王攘夷派の天誅組が孝明天皇の大和行幸に前侍従(公家):中山忠光を主将として、
          山口護国神社(生野義挙史跡)
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土佐藩士だった吉村寅太郎等39名の浪士が集結して大和国に入り五条代官所を襲撃して占拠してた天誅組の変(大和の乱)に但馬にも勤皇の志士達の倒幕意識を奮い起たせ呼応した”幕末最初の倒幕の狼煙”も必要な武器・銃器の調達が遅れた事や計画中止か続行かについて意見が対立したことで
          妙見宮」石標のある参道!!入口
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総帥:公卿の澤(主水正)宣嘉卿「長州藩が京都を追放された文久3年(8月18日の政変)の七卿落ちの一人」や此れに従った志士等も脱出して計画は頓挫し全員の退去が決定した…が徹底抗戦派だった南八郎「長州騎兵隊:高杉晋作に継ぐ2代目総督:河上弥一が脱藩し南八郎を名乗る」・
        生野義挙の志士13名が一時籠った妙見宮:岩須城(山口城)
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戸原卯橘(筑前:秋月藩士)らは朝来郡山口村の妙見堂(山口城)や山麓の西念寺(山口護国神社)に布陣し周辺諸藩の豊岡藩・出石藩等幕府方の出陣に備えていた。元来は外国からの侵攻に備えるため…また一方:農民一揆の鎮圧目的から農兵組織が
        妙見堂前(出曲輪主郭部北端曲輪)から生野街道の眺望
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計画されており、8月18日の政変に京都を逐われた平野國臣(1828ー1864:平野二郎:筑前藩士・禁門の変”元治元年:蛤御門の変”に獄中で斬首された)らが公卿澤宣嘉を奉じて天誅組と呼応した挙兵”但馬の変「生野義挙」”も尊皇攘夷派の浪人が企てた
      護国神社:生野義挙の十七志士碑(背後は志士自刃の山伏岩)
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討幕運動は郷民の農兵組織を頼ったものだった。所詮:民衆の支持を得た革命軍ではなく幕府側の討伐攻撃を受けると指導部は分裂・農兵は離散し、逆に農民一揆が起こり逆に計画が瓦解したことを知った農兵達に竹槍・鉄砲で追い立てられ、
         護国神社:西園寺公望揮毫の”殉節忠士之墓”碑
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ついには十三人が自決し他の者も射殺されたり捕縛され、僅か3日で鎮圧され破陣して天誅組大和義挙同様…生野挙兵も失敗して壊滅。現地:護国神社案内板・Wikipedia(天誅組の変・生野の変・生野義挙)…等参照。”早過ぎた官軍”尊皇攘夷を掲げた義挙は失敗したが5年後に”明治維新”を迎える。 
        R9号線:高田茶臼山城の若宮神社参道に立つ”生野義挙”案内板
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