岩洲城(山口城) Ⅱ 朝来市
生野義挙Ⅰでは生野義挙の舞台となった生野代官所(生野新城)・生野城(生野古城)・生野義挙Ⅱでは徹底抗戦の尊皇攘夷派の終焉地となった山口護国神社・脱藩した浪士らが籠った山口城(岩洲城)に触れてきたがキャッスリング(山城)は此処から生野銀山は平安時代初期の大同2年(807)銀鉱脈の発見により開坑され”死野”が
生野代官所跡(生野新城)の石碑”生野”と読み替えられた程。時の権力者の直轄支配下に置かれ「佐渡の金・生野の銀…」と云われ古くより国内屈指の銀山として、また但馬街道の要衝に在り・鉱山への玄関となる生野町の口銀谷地区は鉱山管理中枢の地として発展してきた。室町時代末期から江戸時代には直轄の生野代官所が置かれた頃が最盛期。
生野古城:主郭南面切岸下の石垣「銀山・鉱山の町」として発展してきた生野町は天文年間(1532~1554)口銀谷に在る城山(生野古城)南表で次々銀鉱脈が発見され但馬守護代の竹田城主太田垣氏が領有していたが天文11年(1542)但馬国守護山名祐豊が横領!?し石見銀山から採掘・錬技術を導入して開発:直接支配し生野古城の改修・居館(生野新城:生野代官所)を築き
竹田城(虎臥城)三の丸から二の丸・主郭天守台経営に乗り出す…が明徳の乱後:山名氏は権威を失墜していく。鉱山権益をめぐる戦いは弘治2年(1556)山名氏に離叛した守護代太田垣氏朝延(竹田城主)が再び鉱山領有権を奪還する…が天正5年(1577)織田信長但馬攻略命を受けた羽柴秀吉軍に敗れ信長の支配下に…信長死後は豊臣秀吉…慶応5年(1600)関ヶ原合戦以後は
山内城から:木ノ内城(中央)・物部城(高架橋右端)徳川家康が生野の地を直轄領として支配し佐渡金山・石見銀山とともに鉱山収入は260年にわたり幕府の重要な財源となっていた。岩洲城(山口城)岩洲山・妙見山? 469m)への登城口(妙見宮参道入口)付近に駐車スペースがなく約150m程なので ”山口護国神社”からスタートするが”のっけ”から崖沿いの道幅は極端に狭く急斜面に
物部城(高架橋北取付付近の段曲輪)続く九十九折れの山道はガレ場となり滑りやすい。送電線鉄塔の建つ尾根筋上部に平坦地(曲輪)が一つある。尾根筋は岩盤・露岩帯で尾根東崖側に10m程の衝立岩・尾根正面も5m程の岩場が凹角に囲む。岩上に2m程の石垣に囲まれた檀上に妙見堂が建ち円山川流域の上流・山口地区から立脇城・物部城から本拠:竹田城方面に
「妙見宮」石標のある参道:岩洲城登城口展望が拡が岩洲城域唯一の展望地。山頂部の岩洲城まで離れているので岩洲城の出曲輪か?。 生野義挙の志士13名が一時立て籠った妙見宮の建つ付近が遺跡地図に含まれないが岩洲城(山口砦 Ca330m)妙見堂背後には露岩の瘠せ尾根鞍部には岩盤を穿つ浅いが岩を砕いてまで敷設された2条の堀切・片堀切がある。
岩洲城(山口城)の妙見堂石垣部(出曲輪北端曲輪)石垣積み妙見堂が用地補強と曲輪確保の為か、此れ程までの峻険な山上・狭い尾根上に堀切?。堂と堀切間の短く幅の狭い平坦地に大岩があり櫓台使用も考える。平坦地型3曲輪は改変されているが往時の砦か?。尾根幅は広い所で10m・南北に凡そ50m程の極小規模だが峻険な露岩上の砦は太田垣氏が築いた岩洲城の山口砦!?。
妙見堂(岩洲城出曲輪!!)の空堀播磨境に近い但馬街道沿いには太田垣氏の竹田城城塞群(物部城・山内城・山口岩洲城・田路城…等がある。天正5年(1577)毛利攻めに播磨に入った羽柴秀吉が:弟秀長に侵攻させた第一次但馬攻めには秀吉に降りた播磨の赤松広秀が参軍。物部城主物部治政・山内城主足羽是高が主君:竹田城主太田垣(土佐守)朝延を護って籠ったのが
岩洲城主郭南端曲輪の土塁妙見堂の建ち後:生野義挙の尊王攘夷の志士が籠もった岩須城(山口城)の出曲輪‼?の尾根続き直ぐ露岩を穿つ堀切を越え…岩洲山頂に築かれた岩洲城。攻め上ってくる播磨:赤松広秀勢を迎え討つ物部氏・足羽氏等は大将:太田垣出雲守(朝延の子:輝延か?)を護り敗走した。岩洲城(山口城)の築城時期や城主等城史は不明だが
竹田城麓:JR竹田駅裏:法樹寺の赤松広秀墓岩洲城合戦場は郷土史に天正元年(1573)年赤松広秀による侵攻を伝えるものもあり、太田垣氏の留守将が拠っていたか?先に一度落城しているのかも?。自然地形に近い城遺構からも天正5年の岩洲城合戦場とはとても思えない…が、太田垣氏の諸城は 悉く落城し翌日には竹田城に迫ります。
(但馬の城 兵庫県の中世城館・荘園遺跡 生野義挙:護国神社案内)を参照
生野代官所跡(生野新城)の石碑”生野”と読み替えられた程。時の権力者の直轄支配下に置かれ「佐渡の金・生野の銀…」と云われ古くより国内屈指の銀山として、また但馬街道の要衝に在り・鉱山への玄関となる生野町の口銀谷地区は鉱山管理中枢の地として発展してきた。室町時代末期から江戸時代には直轄の生野代官所が置かれた頃が最盛期。
生野古城:主郭南面切岸下の石垣「銀山・鉱山の町」として発展してきた生野町は天文年間(1532~1554)口銀谷に在る城山(生野古城)南表で次々銀鉱脈が発見され但馬守護代の竹田城主太田垣氏が領有していたが天文11年(1542)但馬国守護山名祐豊が横領!?し石見銀山から採掘・錬技術を導入して開発:直接支配し生野古城の改修・居館(生野新城:生野代官所)を築き
竹田城(虎臥城)三の丸から二の丸・主郭天守台経営に乗り出す…が明徳の乱後:山名氏は権威を失墜していく。鉱山権益をめぐる戦いは弘治2年(1556)山名氏に離叛した守護代太田垣氏朝延(竹田城主)が再び鉱山領有権を奪還する…が天正5年(1577)織田信長但馬攻略命を受けた羽柴秀吉軍に敗れ信長の支配下に…信長死後は豊臣秀吉…慶応5年(1600)関ヶ原合戦以後は
山内城から:木ノ内城(中央)・物部城(高架橋右端)徳川家康が生野の地を直轄領として支配し佐渡金山・石見銀山とともに鉱山収入は260年にわたり幕府の重要な財源となっていた。岩洲城(山口城)岩洲山・妙見山? 469m)への登城口(妙見宮参道入口)付近に駐車スペースがなく約150m程なので ”山口護国神社”からスタートするが”のっけ”から崖沿いの道幅は極端に狭く急斜面に
物部城(高架橋北取付付近の段曲輪)続く九十九折れの山道はガレ場となり滑りやすい。送電線鉄塔の建つ尾根筋上部に平坦地(曲輪)が一つある。尾根筋は岩盤・露岩帯で尾根東崖側に10m程の衝立岩・尾根正面も5m程の岩場が凹角に囲む。岩上に2m程の石垣に囲まれた檀上に妙見堂が建ち円山川流域の上流・山口地区から立脇城・物部城から本拠:竹田城方面に
「妙見宮」石標のある参道:岩洲城登城口展望が拡が岩洲城域唯一の展望地。山頂部の岩洲城まで離れているので岩洲城の出曲輪か?。 生野義挙の志士13名が一時立て籠った妙見宮の建つ付近が遺跡地図に含まれないが岩洲城(山口砦 Ca330m)妙見堂背後には露岩の瘠せ尾根鞍部には岩盤を穿つ浅いが岩を砕いてまで敷設された2条の堀切・片堀切がある。
岩洲城(山口城)の妙見堂石垣部(出曲輪北端曲輪)石垣積み妙見堂が用地補強と曲輪確保の為か、此れ程までの峻険な山上・狭い尾根上に堀切?。堂と堀切間の短く幅の狭い平坦地に大岩があり櫓台使用も考える。平坦地型3曲輪は改変されているが往時の砦か?。尾根幅は広い所で10m・南北に凡そ50m程の極小規模だが峻険な露岩上の砦は太田垣氏が築いた岩洲城の山口砦!?。
妙見堂(岩洲城出曲輪!!)の空堀播磨境に近い但馬街道沿いには太田垣氏の竹田城城塞群(物部城・山内城・山口岩洲城・田路城…等がある。天正5年(1577)毛利攻めに播磨に入った羽柴秀吉が:弟秀長に侵攻させた第一次但馬攻めには秀吉に降りた播磨の赤松広秀が参軍。物部城主物部治政・山内城主足羽是高が主君:竹田城主太田垣(土佐守)朝延を護って籠ったのが
岩洲城主郭南端曲輪の土塁妙見堂の建ち後:生野義挙の尊王攘夷の志士が籠もった岩須城(山口城)の出曲輪‼?の尾根続き直ぐ露岩を穿つ堀切を越え…岩洲山頂に築かれた岩洲城。攻め上ってくる播磨:赤松広秀勢を迎え討つ物部氏・足羽氏等は大将:太田垣出雲守(朝延の子:輝延か?)を護り敗走した。岩洲城(山口城)の築城時期や城主等城史は不明だが
竹田城麓:JR竹田駅裏:法樹寺の赤松広秀墓岩洲城合戦場は郷土史に天正元年(1573)年赤松広秀による侵攻を伝えるものもあり、太田垣氏の留守将が拠っていたか?先に一度落城しているのかも?。自然地形に近い城遺構からも天正5年の岩洲城合戦場とはとても思えない…が、太田垣氏の諸城は 悉く落城し翌日には竹田城に迫ります。
(但馬の城 兵庫県の中世城館・荘園遺跡 生野義挙:護国神社案内)を参照
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