鶉野飛行場 加西市
鶉野飛行場資料館の隣にCafe de 70(なお)が2018.9月頃・車道沿いに駅舎待合室の様な鶉野飛行場資料館の横にOPENした(蛇足ながらSoraかさいOPENする以前までは最近距離にあったカフェだ閉店しており別の店舗に代わっていて残念…)。
紫電改(下)と九七式艦上攻撃機(上) 店の西側を北へ広いが荒れた道を直進・池の手前で引返した地点が…旧滑走路跡地の北端部・広大な神戸大学の演習敷地だった国有地が市に払い下げられ間無し…戦争遺跡を史跡として整備されているが探索には地理不案内で諦めたが、
滑走路跡の此の一帯が加西市地域活性化拠点施設「Soraかさい」の大駐車場。姫路海軍航空隊鶉野飛行場滑走路跡の北端付近に加西市防災備蓄倉庫を格納庫に見立て、此処に第二次世界大戦末期:滑走路の南西にあった川西航空機(現:新明和)
姫路製作所鶉野工場で組立てられていた戦闘機紫電改に続きパイロット養成に使用されたが最期は特攻機としても使用された中島飛行機(現:SUBARU)で開発された三人乗九七式艦上攻撃機の実物大模型が(2022年4月OPEN)展示公開されている。
九七式は複葉機から国産単発機として初めて引込脚式(館内展示形態)・主翼折畳み式が採用されている。故障も少なく稼働率も極めて高く世界的に注目された優秀機だが、機首前方のエンジンカバーが膨らんでいるのが素人目には
スタイリッシュではなくアンバランスさえ感じるが…?。中島飛行機か?・愛知航空機か?・生産機数の少ない三菱航空機なのか?。九七式艦上攻撃機も特攻機に転用された。特攻機として改造された三菱重工業の零式艦上戦闘機(ゼロ戦)だが
掩体壕(格納庫)を模した「Soraかさい」
中島飛行機もライセンス生産(総生産数の6割以上が中島製なのだが…)されたが三菱製・中島製の違いは製造銘板確認以外難しそうですね?。大戦初期:白縁日の丸の中島製も限られた時期のもの・目標になりやすく黒縁や縁なし塗装が多くなる。
掩体壕を模した「Soraかさい」に実物大模型(九七式艦上攻撃機と紫電改)を展示海から離れた播磨内陸部の加西市に”姫路海軍航空隊”の鶉野(うずらの)飛行場があり、三木市にも三木(相野)飛行場があって郷土史家M氏が主催される「三木飛行場を記憶する会」があり、戴いた名刺に”ゼロ戦”ではなく機体の美しい双発機:
奉天池の南東7ー80m・新池の南端の土塁(無蓋掩体壕)内の紫電改訓練実機展示陸軍の主力の百式司令部戦略偵察機の試作機(キ46)らしい?…姫路海軍航空隊”紫電改”や加古川(尾上)飛行場(日本陸軍:九七式戦闘機)や加東市にグライダー基地(滋賀海軍航空隊戦闘機・秋水訓練嬉野飛行場)…等々の飛行訓練場があった。
コの字土塁(無蓋掩体壕)のなかに納まる紫電改(本物の訓練機)鶉野飛行場は昭和18年海軍が艦攻(艦上攻撃機)専修搭乗員養成の練習航空隊として設置・昭和20年3月以降~神風特別攻撃隊護皇白鷺隊・白鷺揚武隊等の部隊編成で特攻出撃・5月には全稼動機を失い部隊維持できなくなり航空隊は解散廃止された。
零式艦上戦闘機 甲型(中島製) (Paper craft) 盧溝橋事件を発端に始まった日中戦争から其の(太平洋戦争)終結迄、陸・海軍を通し最産され/数多くの戦闘に参戦し偉功を立てた海軍航空隊の花形機零戦「零式艦上戦闘機は五二型」だが機体の改修回数・発動機の換装回数や後には武装の変更で、
零式艦上戦闘機 甲型(中島製)(Paper craft)
甲乙丙…を付与する等…色々と規定や変更・追加もあり何式・何号・何型…と云われてみても?。三菱製・中島製…の微妙な違いは指摘されなければ機体画像から判断など出来ない…!?。零戦の次期戦闘機として高機能を切望された烈風(三菱製)は
零式艦上戦闘機 ジオラマ(軍用燃料給油車・掩体壕内のゼロ戦…等)
試作機のみで終戦・陣風(川西航空機)も試作遅延で中止され紫電改が零戦と共に活躍するも終戦まで僅か数ヶ月で特攻機として出撃。加西市地域活性化拠点施設「Soraかさい」に建つ姫路海軍航空隊祈念の碑は現在地より滑走路跡を南400m程の位置にポツンと設置され遺されていた整備のローラー・作業台も此処に移設された。
奉天池の南東端に何やら碑?が建つ南東7ー80m手前・新池の南端には南に開くコの字状土塁(無蓋掩体壕)のなかに納まる一機の紫電改は二人乗り(後席は教官)の訓練機だが操縦操作の連動やタイヤの摩耗…等々からも展示機は実物!。
ペーパークラフト作成時のWikipedia・市の鶉野飛行場跡廻りガイド等参照
紫電改(下)と九七式艦上攻撃機(上) 店の西側を北へ広いが荒れた道を直進・池の手前で引返した地点が…旧滑走路跡地の北端部・広大な神戸大学の演習敷地だった国有地が市に払い下げられ間無し…戦争遺跡を史跡として整備されているが探索には地理不案内で諦めたが、
滑走路跡の此の一帯が加西市地域活性化拠点施設「Soraかさい」の大駐車場。姫路海軍航空隊鶉野飛行場滑走路跡の北端付近に加西市防災備蓄倉庫を格納庫に見立て、此処に第二次世界大戦末期:滑走路の南西にあった川西航空機(現:新明和)
姫路製作所鶉野工場で組立てられていた戦闘機紫電改に続きパイロット養成に使用されたが最期は特攻機としても使用された中島飛行機(現:SUBARU)で開発された三人乗九七式艦上攻撃機の実物大模型が(2022年4月OPEN)展示公開されている。
九七式は複葉機から国産単発機として初めて引込脚式(館内展示形態)・主翼折畳み式が採用されている。故障も少なく稼働率も極めて高く世界的に注目された優秀機だが、機首前方のエンジンカバーが膨らんでいるのが素人目には
スタイリッシュではなくアンバランスさえ感じるが…?。中島飛行機か?・愛知航空機か?・生産機数の少ない三菱航空機なのか?。九七式艦上攻撃機も特攻機に転用された。特攻機として改造された三菱重工業の零式艦上戦闘機(ゼロ戦)だが
掩体壕(格納庫)を模した「Soraかさい」
中島飛行機もライセンス生産(総生産数の6割以上が中島製なのだが…)されたが三菱製・中島製の違いは製造銘板確認以外難しそうですね?。大戦初期:白縁日の丸の中島製も限られた時期のもの・目標になりやすく黒縁や縁なし塗装が多くなる。
掩体壕を模した「Soraかさい」に実物大模型(九七式艦上攻撃機と紫電改)を展示海から離れた播磨内陸部の加西市に”姫路海軍航空隊”の鶉野(うずらの)飛行場があり、三木市にも三木(相野)飛行場があって郷土史家M氏が主催される「三木飛行場を記憶する会」があり、戴いた名刺に”ゼロ戦”ではなく機体の美しい双発機:
奉天池の南東7ー80m・新池の南端の土塁(無蓋掩体壕)内の紫電改訓練実機展示陸軍の主力の百式司令部戦略偵察機の試作機(キ46)らしい?…姫路海軍航空隊”紫電改”や加古川(尾上)飛行場(日本陸軍:九七式戦闘機)や加東市にグライダー基地(滋賀海軍航空隊戦闘機・秋水訓練嬉野飛行場)…等々の飛行訓練場があった。
コの字土塁(無蓋掩体壕)のなかに納まる紫電改(本物の訓練機)鶉野飛行場は昭和18年海軍が艦攻(艦上攻撃機)専修搭乗員養成の練習航空隊として設置・昭和20年3月以降~神風特別攻撃隊護皇白鷺隊・白鷺揚武隊等の部隊編成で特攻出撃・5月には全稼動機を失い部隊維持できなくなり航空隊は解散廃止された。
零式艦上戦闘機 甲型(中島製) (Paper craft) 盧溝橋事件を発端に始まった日中戦争から其の(太平洋戦争)終結迄、陸・海軍を通し最産され/数多くの戦闘に参戦し偉功を立てた海軍航空隊の花形機零戦「零式艦上戦闘機は五二型」だが機体の改修回数・発動機の換装回数や後には武装の変更で、
零式艦上戦闘機 甲型(中島製)(Paper craft)
甲乙丙…を付与する等…色々と規定や変更・追加もあり何式・何号・何型…と云われてみても?。三菱製・中島製…の微妙な違いは指摘されなければ機体画像から判断など出来ない…!?。零戦の次期戦闘機として高機能を切望された烈風(三菱製)は
零式艦上戦闘機 ジオラマ(軍用燃料給油車・掩体壕内のゼロ戦…等)
試作機のみで終戦・陣風(川西航空機)も試作遅延で中止され紫電改が零戦と共に活躍するも終戦まで僅か数ヶ月で特攻機として出撃。加西市地域活性化拠点施設「Soraかさい」に建つ姫路海軍航空隊祈念の碑は現在地より滑走路跡を南400m程の位置にポツンと設置され遺されていた整備のローラー・作業台も此処に移設された。
奉天池の南東端に何やら碑?が建つ南東7ー80m手前・新池の南端には南に開くコの字状土塁(無蓋掩体壕)のなかに納まる一機の紫電改は二人乗り(後席は教官)の訓練機だが操縦操作の連動やタイヤの摩耗…等々からも展示機は実物!。
ペーパークラフト作成時のWikipedia・市の鶉野飛行場跡廻りガイド等参照
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