銀の馬車道 Ⅰ(生野銀山) 神埼郡神河町
神埼郡旧:大河内町と神崎町合併が進められていた頃福本藩陣屋を訪れ地元ボランティアガイドをされている方に出会ったが、陣屋や僅かに残される武家屋敷の改修・「銀の馬車道」を町興しの記念のイベントに考えておられた事を思い出した。
生野鉱山(銀山)からは丹波街道(高坂峠を越え多可郡中区から丹波へ入る銀山街道”播磨の義人:上月氏の首無し地蔵…等参照”)とは別に (播磨・但馬を繋ぐ主:要衝)の但馬街道があり朝来市生野町より但馬街道の要衝にあり飾磨港へと
生野代官所(生野平城跡)のモニュメント 「生野鉱山寮馬車道(銀の馬車道)が通じていた。生野鉱山は平安時代初期の大同2年(807)銀の発見により開抗され”時の権力者の直轄支配下”に置かれ「佐渡の金・生野の銀」と云われ、古くより国内屈指の銀山・生野町口銀谷。
明治21年有栖川親王が宿泊された生野クラブ(三菱の保養施設・迎賓館)天文年間(1532-54)頃には口銀谷の生野古城の南表で次々銀鉱脈が発見され但馬守護代の鉱山への玄関口:但馬竹田城城主は山名四天王の一:太田垣氏だが生野銀山を天文11年(1542)主家の山名祐豊が横領して直接支配し経営に乗り出す。
明治初期の官舎<三菱の紋瓦があがる>と背後の生野古城織田信長の「天下布武」命に天正年中:但馬攻略を果たした羽柴秀吉にとって日本最大級の銀鉱脈は嘗てより狙っており財政上・手に入れた生野銀山も、関ヶ原合戦(慶長5年)後は天領となり徳川家康の財政を支え、明治維新後は政府直轄→
(口銀谷)鉱物運搬用のトロッコ軌道と石積みアーチ
宮内省所管・皇室財産となり明治29年(1896)には三菱に払い下げられ…昭和48年(1974)閉山し凡そ1200年の鉱山歴史を閉じるたが、但馬:朝来の生野町口銀谷地区は鉱山管理中枢の地として但馬街道の要衝に面して:播磨灘に臨み栄える姫路飾磨港と全国有数の鉱山として発展してきた。
神河町:生野橋右岸:銀の馬車道修築碑ミニパーク内
国内では珍しい「マカダム式舗装(土砂混じりの礎石を敷き詰め固めた当時最先端土木技術構造)」
次回:銀の馬車道 Ⅱ(銀の馬車道と鉱石道)
生野鉱山(銀山)からは丹波街道(高坂峠を越え多可郡中区から丹波へ入る銀山街道”播磨の義人:上月氏の首無し地蔵…等参照”)とは別に (播磨・但馬を繋ぐ主:要衝)の但馬街道があり朝来市生野町より但馬街道の要衝にあり飾磨港へと
生野代官所(生野平城跡)のモニュメント 「生野鉱山寮馬車道(銀の馬車道)が通じていた。生野鉱山は平安時代初期の大同2年(807)銀の発見により開抗され”時の権力者の直轄支配下”に置かれ「佐渡の金・生野の銀」と云われ、古くより国内屈指の銀山・生野町口銀谷。
明治21年有栖川親王が宿泊された生野クラブ(三菱の保養施設・迎賓館)天文年間(1532-54)頃には口銀谷の生野古城の南表で次々銀鉱脈が発見され但馬守護代の鉱山への玄関口:但馬竹田城城主は山名四天王の一:太田垣氏だが生野銀山を天文11年(1542)主家の山名祐豊が横領して直接支配し経営に乗り出す。
明治初期の官舎<三菱の紋瓦があがる>と背後の生野古城織田信長の「天下布武」命に天正年中:但馬攻略を果たした羽柴秀吉にとって日本最大級の銀鉱脈は嘗てより狙っており財政上・手に入れた生野銀山も、関ヶ原合戦(慶長5年)後は天領となり徳川家康の財政を支え、明治維新後は政府直轄→
(口銀谷)鉱物運搬用のトロッコ軌道と石積みアーチ
宮内省所管・皇室財産となり明治29年(1896)には三菱に払い下げられ…昭和48年(1974)閉山し凡そ1200年の鉱山歴史を閉じるたが、但馬:朝来の生野町口銀谷地区は鉱山管理中枢の地として但馬街道の要衝に面して:播磨灘に臨み栄える姫路飾磨港と全国有数の鉱山として発展してきた。
神河町:生野橋右岸:銀の馬車道修築碑ミニパーク内
国内では珍しい「マカダム式舗装(土砂混じりの礎石を敷き詰め固めた当時最先端土木技術構造)」
次回:銀の馬車道 Ⅱ(銀の馬車道と鉱石道)
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