手々打栗「爪あと栗」伝説 丹波市
丹波市の紅葉三山(現在では観光用の数十山の1で紹介されているが…)で、丹波市山南町の名刹:山南三山に「岩屋山石龕寺」がある。昭和63年「村おこし事業の一環」として実施されてきたのが「太平記」の足利尊氏・義詮父子所縁の恒例のイベント「石龕寺もみじまつり」も第30回を最後に終了となった。石龕寺は足利尊氏と嫡男の義詮(ヨシアキラ)父子に所縁深く:各所に尊氏伝説・義詮逗留遺跡…が遺る。此の搗栗《カチグリ:薫蒸式の高級品で正月・勝(カチ)に通じるところから武士の出陣時に用いられた》の一種。ててうち栗にも諸説ある…
栗の花…手々打栗「爪あと栗」伝説の紹介。てんでに取る・手中に満つる意味で手内栗とも、「栗苞 自ら裂けて子落ちる」意味から落栗とも「鼓打」から転化したとの説も…。「鼓打」は子打ち…から…父打ちに転化したものか!?「父(てて)打ち栗」とも:
丹波栗の栗苞また用明天皇の西国巡幸の際の逸話として・手ずからの”爪あと”栗を村人が「お手植え栗」として育て「天々打栗」と呼んだとの別伝説もある。正平6年(観応2年 1351)桜井直常(足利氏一族だが観応の攪乱に直義に付き義詮と戦うが後:義詮に帰順した。
(…が詳細は割愛)等との戦いに敗れ京を追われた足利尊氏親子は栗作郷の久下氏を頼って丹波国岩屋の石龕寺へ落ちて来た。尊氏が九州へ落ち延びる出兵に際し:此処に留まった義詮護衛に仁木頼章(後:初代丹波守護・高見城主)・
石龕寺山門(仁王門)…これよりは下馬…弟の四郎(和泉守)義長(鴨野城・泉山城主!?)地侍・僧兵等2000余騎が石龕寺に留まった。義詮に寺僧が差し出した丹波(大粒)栗に「勝栗」のことを思い出し「都をば出て落ち栗の芽もあらば 世にかち栗とならぬものかは」と詠み栗に爪の跡をつけ
「この栗の生い茂るがごとく 我が足利の旋風を天下に靡びかさん 再び余が帰りくる日までに繁く実のれ」と。尊氏が再挙の旗を靡かせ九州を立ち、湊川での一戦では楠勢を破り天下に号令する頃には・栗は芽を吹き実をつけたが、不思議なことに栗の実に爪痕が鮮やかにのこる手づからの爪痕栗の奇形は、
「都をば 出て落ち栗の…」から”手々打栗”と名付けられ、岩屋の里に産されている筈?の「爪あと栗(手々打栗)」も、製造に手間暇の掛かる”搗(かち)栗”も其の名を聴くことも今は殆どなくなった…が、 ”石龕寺もみじまつり”の武者行列は尊氏が九州より凱旋し石龕寺の毘沙門堂に祈願成就の報告に参内する様子を伝えたもの…
毘沙門堂
その実を貰い受け・他の土地に植えても同じようには育たなかった…この栗の原木は枯れ・栗のいわれを書いた版木(上記・霧の里2参照)が残されている。用明天皇(585~587)の頃より大粒の丹波栗は朝廷に寄進されていたと云われ、丹波岩屋・栗作郷(久下・上久下地区)は主産地だったが栗の病気?で絶滅状態!!…
「もみじまつり」石龕寺への足利尊氏武者行列は岩屋谷旧道の栗林を抜けていた
産地は”銀寄”等品種の伝播により大阪能勢・三田・京都和知や亀岡に移ってしまったが、石龕寺に至る岩屋集落最奥部の「かつえ坂(左右一帯は栗園)」登り口にある栗園には丹波大粒栗の代表的な「テラウチ・長光寺・手々打栗も」数本が品種伝播・研究等に栽培育成され10数年経つが…!現状を知らない。
栗の花…手々打栗「爪あと栗」伝説の紹介。てんでに取る・手中に満つる意味で手内栗とも、「栗苞 自ら裂けて子落ちる」意味から落栗とも「鼓打」から転化したとの説も…。「鼓打」は子打ち…から…父打ちに転化したものか!?「父(てて)打ち栗」とも:
丹波栗の栗苞また用明天皇の西国巡幸の際の逸話として・手ずからの”爪あと”栗を村人が「お手植え栗」として育て「天々打栗」と呼んだとの別伝説もある。正平6年(観応2年 1351)桜井直常(足利氏一族だが観応の攪乱に直義に付き義詮と戦うが後:義詮に帰順した。
(…が詳細は割愛)等との戦いに敗れ京を追われた足利尊氏親子は栗作郷の久下氏を頼って丹波国岩屋の石龕寺へ落ちて来た。尊氏が九州へ落ち延びる出兵に際し:此処に留まった義詮護衛に仁木頼章(後:初代丹波守護・高見城主)・
石龕寺山門(仁王門)…これよりは下馬…弟の四郎(和泉守)義長(鴨野城・泉山城主!?)地侍・僧兵等2000余騎が石龕寺に留まった。義詮に寺僧が差し出した丹波(大粒)栗に「勝栗」のことを思い出し「都をば出て落ち栗の芽もあらば 世にかち栗とならぬものかは」と詠み栗に爪の跡をつけ
「この栗の生い茂るがごとく 我が足利の旋風を天下に靡びかさん 再び余が帰りくる日までに繁く実のれ」と。尊氏が再挙の旗を靡かせ九州を立ち、湊川での一戦では楠勢を破り天下に号令する頃には・栗は芽を吹き実をつけたが、不思議なことに栗の実に爪痕が鮮やかにのこる手づからの爪痕栗の奇形は、
「都をば 出て落ち栗の…」から”手々打栗”と名付けられ、岩屋の里に産されている筈?の「爪あと栗(手々打栗)」も、製造に手間暇の掛かる”搗(かち)栗”も其の名を聴くことも今は殆どなくなった…が、 ”石龕寺もみじまつり”の武者行列は尊氏が九州より凱旋し石龕寺の毘沙門堂に祈願成就の報告に参内する様子を伝えたもの…
毘沙門堂
その実を貰い受け・他の土地に植えても同じようには育たなかった…この栗の原木は枯れ・栗のいわれを書いた版木(上記・霧の里2参照)が残されている。用明天皇(585~587)の頃より大粒の丹波栗は朝廷に寄進されていたと云われ、丹波岩屋・栗作郷(久下・上久下地区)は主産地だったが栗の病気?で絶滅状態!!…
「もみじまつり」石龕寺への足利尊氏武者行列は岩屋谷旧道の栗林を抜けていた
産地は”銀寄”等品種の伝播により大阪能勢・三田・京都和知や亀岡に移ってしまったが、石龕寺に至る岩屋集落最奥部の「かつえ坂(左右一帯は栗園)」登り口にある栗園には丹波大粒栗の代表的な「テラウチ・長光寺・手々打栗も」数本が品種伝播・研究等に栽培育成され10数年経つが…!現状を知らない。
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