高八山城(仮称) Ⅰ:八幡山城 丹波市柏原町

柏原川沿いの小南山やR176号多田バイパス道からは八幡社の杜入船山の頂に望む朱色の三重塔と南山麓・奥村川を跨ぐ木の根橋が柏原町のシンボリック・ランドマークとして親しまれている。歴史散歩の観光スポットとしては
      木の根橋と観光案内所・正面が柏原八幡社の杜
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柏原藩織田家陣屋や大手筋にあって石田通りに移設された太鼓櫓(ツツジ太鼓櫓)…・田ステ女公園や大正・昭和初期の洋風建物…等々もある。此れ等に加え・山城ファンにとって尤も関心も深いのが八幡山城か。黒井城攻略拠点として天正7年(1579)6月:柏原八幡神社を焼き払い跡地に明智光秀が築いた本陣?とされる…。
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新城普請の陣中見舞いに天正7年10月京都吉田神社の宮司:吉田兼見が訪れた「加伊原新城」がどこなのか?…極近年まで入船山の八幡山城は城趾として認められず?、忘れられた存在だったものが突然:光秀の本陣…!…柏原城=八幡山城だされると加伊原(柏原?)新城の位置が推定できない…?
 八幡神社背後の鞍部(堀切?)南端の空家(現:更地の宮司宅か社務所?)・畑地跡は本陣…?
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…が黒井城を望めず急襲するにも距離のある八幡山城?より、縄張りが特異の石生西河原城が妻木主計範資の前戦基地:石負砦(駐屯地・本陣)とし、一歩退いた八幡山城(加伊原新城)には戦後処理と柏原を中心とした統治、金山城は天正6年9月築城だが摂津(大阪)への進出基地として其の後も築造拡幅が進められていた…。
        石生西河原城:無数の駐屯兵の?曲輪群
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話は前後するが:八幡社の西正面:柏原川を挟んで小南山城・西麓を旧街道の恩鳥坂の戦い(天正6年?)では金山城から撃って出た明智勢を迎え撃つ高見城・穂壷城の丹波勢が圧勝・両軍戦死者を弔う地蔵堂が・西には茶臼山砦がある。また高見城の赤井五郎(忠家)が光秀本陣の八幡山城?を攻めたが敗退した…!?。
       茶臼山砦:古墳のマウンド曲輪と北下に二段曲輪
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”恩鳥坂の戦い”では金山城から出撃した明智勢が大敗しているが明智勢の動向は金水寺城(仮称)からの篠山街道監視や、小南山城には八上城包囲に先に落城した諸城主ら(例えば嘗て衰退しているが小倉庄領主:久下氏と繋がりのある大山城の中澤氏…)が籠り、未だ八幡山城が赤井氏の砦として機能していたら高見城に向かう
       独立丘陵の小南山全景
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明智勢が恩鳥峠に差し掛かるのを見定め!?三-四方から包囲し襲いかかったものか…。天正7年8月明智軍の黒井城総攻撃に高見城主:赤井五郎(忠家)は僅かな留守兵を残して黒井城に向かい・その虚を衝いた細川藤孝藤田伝吾四方田(四王天)政孝(信長を襲った本能寺では森蘭丸を討ったと云われる)らの攻撃に落城した。
        譲葉山城(東郭):権現堂に入る土塁虎口
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茶臼山砦の「諭しの山」伝承からは八幡山城の至近距離にある小南山城・金水寺城も此の僅かな期間乍ら八幡山の陣城の後衛に充ったものか?。八幡山城は近年になって県遺跡調査書に城趾認定!?された。名こそ不明だが在地土豪が八幡山(入船山)背後の鞍部から高八山への稜上に築かれていた城砦群の一。
      譲葉山城(西郭):空堀・折れを意識した曲輪北東面
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男山(石清水)八幡宮の別宮として創建された柏原八幡神社の創建は万寿元年(1024)・同時期の神宮寺は東奥の大安寺だが、此処を登山口とする譲葉山山上には光秀の陣城(譲葉山城東郭・西郭/譲葉山西城/東奥/見長城)がある。篠山市の夏栗山砦に代る三尾城や国領越・黒井城の監視砦か!!。神仏習合(神仏混淆)の聖地として
      譲葉山西城:主郭南面へ空堀を回り込むと竪土塁が…
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三重塔は応仁元年(1467)の創建を伝えるので、柏原八幡から離れた神宮寺:大安寺の古寺社を八幡社の塔背後の尾根や平地に遷したが、天正6年~には寺としての曲輪遺構等を改修し陣城?として使用したものと推察。
         東奥・見長城(仮称):主曲輪南面の切岸
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次回柏原:八幡山城からの尾根続き4等三角点(藤の目)から高八山に向かう。高八山=高地の八幡山の意味か?、明確な山城遺構は無いが、平坦段・竪堀状・主郭背後には土橋付き堀切があった。
      清水山(左)・高八山(中央)・譲葉山(右)・入船山(右手前肩の赤い塔)
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