高八山城(仮称) Ⅱ:藤ノ目-高八山城 丹波市
高八山城(仮称) はブログⅠ:八幡山城から続くがⅠ話完結文なので重複箇所はある。入船山の山上には平安時代:後一条天皇の万寿元年(1024)男山(石清水)八幡宮の分霊を遷し別宮として創建され、三重塔を置く神仏習合(神仏混淆)の聖地でとして応仁元年(1467)柏原八幡神社が創建されたと伝わる。
八幡山城・櫓台状曲輪と東西の曲輪を結ぶ堀切通路!!八幡神社は南北朝期の戦禍以降・天正7年(1579)6月:明智光秀の兵火に焼亡するまで再建・再興された神域が城砦となった記録はなさそうだが?、ク朽木史郎氏の「丹波の城(丹波文庫出版 昭和63年)には・八幡山城は荻野安芸守?が足利氏に抗戦し築いた砦」とある?。荻野朝忠が弘浪山の高山寺を城郭化し南朝方として足利尊氏に
八幡山城・尾根筋の櫓台状と南曲輪前後を堀切で遮断…!!抗した砦なら知られるところですが…?。八幡山城は「兵庫県の中世城館・荘園遺跡(県教育委員会 昭和57年)」には曲輪・堀切遺構確認で城郭周知されている…、寺社の焼討ちは侵攻勢力の常套手段?、光秀は天正6年冬八幡社殿・付属建物を壊して城砦を築き、尾根にも新しく臨戦態勢の城郭を築いたとされるが疑問が残る…。
櫓台前後の曲輪東面は高い切岸下に堀切?を挟む二段曲輪八上城と黒井城の連携を阻止する金山城築城は天正6年9月。丹波勢がⅠ:八幡山城に記した恩鳥峠(室谷)の戦いには穂壷城や傍の小南山城や下小倉の金水寺城から出撃し包囲した丹波勢によるものか?、しかし直ぐに此れ等:丹波の城砦を付城として取込み、嘗て荻野・赤井勢力下にあった砦(柏原城?)を高見城から急襲した際には、
給水施設裏の虎口を抜けた曲輪と次の土塁付き曲輪此れ等を付城に改修しており反対に光秀軍に包囲され敗退?したものか!?。此の際の柏原城?が柏原八幡神社(入船山)北背後の鞍部堀切から三角点243m(藤ノ目)「此処も曲輪!」ー高八山(高八山城)330mへの尾根上に曲輪・土橋付堀切があり、此れよりは登山コースを外すと岩場にで反転することになるが向山連山の
”国威宣揚”の石碑の建つ平坦段(3段程の曲輪)清水山545m(反射電波塔)に至る。高八山330mの東麓・東奥集落の藤の目古墳群の奥に子安観音を祀る小祠が!?あったところが常源寺跡だが、高八山への東面から直登コースは無さそう。西の多田からは上部まで杣道はあるが南尾根を辿るのが本道の様。高八山=”柏原八幡城上の山”の意味に思える!!。
急斜面尾根筋の西面に点在する何条もの竪堀状…(右手下へ)曲輪・竪堀・土橋付き堀切が高八山山頂部にある。同様の小南山城や下小倉の金水寺城にも歴史スポットを当て調査が進むことを期待したい。黒井城の落城は天正7年8月初め!?だが”京都吉田神社の神主:吉田兼見が記す(兼見卿記)には天正7年10月光秀を見舞った「加伊原新城」は未だ普請中だったという。
4等三角点「藤ノ目」の広い台地(画面中央上に点標柱)この頃の最終攻略にはして黒井城正面に朝日城・火山城・惣山城・棚原城・平松砦…が横並びの布陣・陣所に茶臼山城があり後衛過ぎる。加伊原新城をカンジュウジ(横田城)や石生西河原城とも推定していたが石生西河原城を充てれば光秀戦後の築城:加伊原新城が八幡山城の一部と思われ、光秀が山を下りて会ったのは
大歳神社(寺社彫刻師:中井言次君音の作彫がある)から五社稲荷前五社稲荷・大歳神社付近か?。当時は麓の厳島神社(弁天社)一帯は池・沼地だった?様。天正7年夏:丹波国を平定して役目を終えている為…”加伊原新城”は付城/陣城ではなく戦後処理・丹波支配はじめとして柏原町内の商家・寺社・門前町を取り込んだ”町割り”を実践…。天正10年には光秀家臣:斉藤利三に代わり
五社稲荷から春日神社を降りた八幡社公園西北端の弁天社黒井城主として6200石余りを扶持された羽柴秀吉重臣:堀尾茂助(吉晴)が入城・堀尾茂助を奉行に八幡社神社社殿を再建・天正13年(1585)竣工している。その後も元和元年(1615)…等数回の焼失・再建を経て文化12年(1815中井)一統の寺社彫刻師中井権治正忠・正貞が中心となって再建された。
高八山山頂の主郭南東切岸八幡山城=加伊原新城の説明に随分遠回りしてしまった。光秀陣城の通説:三重塔から北背後の尾根筋を配水施設がある付近までが連郭式縄張りの八幡山城城域とされるようですが!?、配水施設裏の段差の右手が虎口様!?・広い曲輪二段ほど先に低土塁残欠?・眺望も効かない広い尾根筋に現われる
高八山城主郭背後の土橋付き堀切”国威宣揚”の石塔は;中部防衛司令官・谷中将書:昭和13年7月氷上郡聯合の青年団長だった県会議員生田克巳氏名で建立された記念碑前後も2-3段の曲輪跡!?。傾斜も増す雑木の尾根筋が緩斜面になる広い曲輪段の中程に三角点標柱が埋まる4等三角点藤ノ目243mは物見台か高八山城副郭!。
石生西河原城:分水界展望所西北端曲輪の切岸山城レポートとしては縄張り・顕著な土塁・空堀・曲輪等遺構が少なく消化不良気味…再訪時に補足したい。更に辿ると譲葉山や柏原町街を見下ろせる狭いが台地状の高八山(330m)が城域最高所の高八山城主郭。尾根続きの土橋付き堀切を下り登り返すと反射板が見える清水山への登山ルート。
浄福寺砦・南郭北端曲輪と主曲輪の段差(切岸1.5m程)
”国威宣揚”石塔から「藤ノ目」迄の尾根筋は殊に西面に竪堀状を多く見る。尚:清水山の北方山裾に妻木主計の石負砦か西河原城が、西尾根先端部には浄福寺砦(仮称)がある。鳳翔寺門前を経て西河原城への玄関口や現:水分れ公園口から春日町歌道(うとう)谷の黒井盆地西南玄関口への通行監視を兼ねたものか?
八幡神社裏参道から「高谷忠魂殿」への連絡道直ぐ上部の広い削平段「旧千日寺跡のステ女公園」からと八幡神社裏参道から「高谷忠魂殿」へ向かう山道があるが此の通りの直ぐ上部にも広い曲輪がある。神宮寺か神社関連と思えるが未だ祠が祀られている高谷公園は、単に慰霊地として整地された場所ではなく嘗て砦跡ではなかったか…との思いは捨てきれない…
八幡山城・櫓台状曲輪と東西の曲輪を結ぶ堀切通路!!八幡神社は南北朝期の戦禍以降・天正7年(1579)6月:明智光秀の兵火に焼亡するまで再建・再興された神域が城砦となった記録はなさそうだが?、ク朽木史郎氏の「丹波の城(丹波文庫出版 昭和63年)には・八幡山城は荻野安芸守?が足利氏に抗戦し築いた砦」とある?。荻野朝忠が弘浪山の高山寺を城郭化し南朝方として足利尊氏に
八幡山城・尾根筋の櫓台状と南曲輪前後を堀切で遮断…!!抗した砦なら知られるところですが…?。八幡山城は「兵庫県の中世城館・荘園遺跡(県教育委員会 昭和57年)」には曲輪・堀切遺構確認で城郭周知されている…、寺社の焼討ちは侵攻勢力の常套手段?、光秀は天正6年冬八幡社殿・付属建物を壊して城砦を築き、尾根にも新しく臨戦態勢の城郭を築いたとされるが疑問が残る…。
櫓台前後の曲輪東面は高い切岸下に堀切?を挟む二段曲輪八上城と黒井城の連携を阻止する金山城築城は天正6年9月。丹波勢がⅠ:八幡山城に記した恩鳥峠(室谷)の戦いには穂壷城や傍の小南山城や下小倉の金水寺城から出撃し包囲した丹波勢によるものか?、しかし直ぐに此れ等:丹波の城砦を付城として取込み、嘗て荻野・赤井勢力下にあった砦(柏原城?)を高見城から急襲した際には、
給水施設裏の虎口を抜けた曲輪と次の土塁付き曲輪此れ等を付城に改修しており反対に光秀軍に包囲され敗退?したものか!?。此の際の柏原城?が柏原八幡神社(入船山)北背後の鞍部堀切から三角点243m(藤ノ目)「此処も曲輪!」ー高八山(高八山城)330mへの尾根上に曲輪・土橋付堀切があり、此れよりは登山コースを外すと岩場にで反転することになるが向山連山の
”国威宣揚”の石碑の建つ平坦段(3段程の曲輪)清水山545m(反射電波塔)に至る。高八山330mの東麓・東奥集落の藤の目古墳群の奥に子安観音を祀る小祠が!?あったところが常源寺跡だが、高八山への東面から直登コースは無さそう。西の多田からは上部まで杣道はあるが南尾根を辿るのが本道の様。高八山=”柏原八幡城上の山”の意味に思える!!。
急斜面尾根筋の西面に点在する何条もの竪堀状…(右手下へ)曲輪・竪堀・土橋付き堀切が高八山山頂部にある。同様の小南山城や下小倉の金水寺城にも歴史スポットを当て調査が進むことを期待したい。黒井城の落城は天正7年8月初め!?だが”京都吉田神社の神主:吉田兼見が記す(兼見卿記)には天正7年10月光秀を見舞った「加伊原新城」は未だ普請中だったという。
4等三角点「藤ノ目」の広い台地(画面中央上に点標柱)この頃の最終攻略にはして黒井城正面に朝日城・火山城・惣山城・棚原城・平松砦…が横並びの布陣・陣所に茶臼山城があり後衛過ぎる。加伊原新城をカンジュウジ(横田城)や石生西河原城とも推定していたが石生西河原城を充てれば光秀戦後の築城:加伊原新城が八幡山城の一部と思われ、光秀が山を下りて会ったのは
大歳神社(寺社彫刻師:中井言次君音の作彫がある)から五社稲荷前五社稲荷・大歳神社付近か?。当時は麓の厳島神社(弁天社)一帯は池・沼地だった?様。天正7年夏:丹波国を平定して役目を終えている為…”加伊原新城”は付城/陣城ではなく戦後処理・丹波支配はじめとして柏原町内の商家・寺社・門前町を取り込んだ”町割り”を実践…。天正10年には光秀家臣:斉藤利三に代わり
五社稲荷から春日神社を降りた八幡社公園西北端の弁天社黒井城主として6200石余りを扶持された羽柴秀吉重臣:堀尾茂助(吉晴)が入城・堀尾茂助を奉行に八幡社神社社殿を再建・天正13年(1585)竣工している。その後も元和元年(1615)…等数回の焼失・再建を経て文化12年(1815中井)一統の寺社彫刻師中井権治正忠・正貞が中心となって再建された。
高八山山頂の主郭南東切岸八幡山城=加伊原新城の説明に随分遠回りしてしまった。光秀陣城の通説:三重塔から北背後の尾根筋を配水施設がある付近までが連郭式縄張りの八幡山城城域とされるようですが!?、配水施設裏の段差の右手が虎口様!?・広い曲輪二段ほど先に低土塁残欠?・眺望も効かない広い尾根筋に現われる
高八山城主郭背後の土橋付き堀切”国威宣揚”の石塔は;中部防衛司令官・谷中将書:昭和13年7月氷上郡聯合の青年団長だった県会議員生田克巳氏名で建立された記念碑前後も2-3段の曲輪跡!?。傾斜も増す雑木の尾根筋が緩斜面になる広い曲輪段の中程に三角点標柱が埋まる4等三角点藤ノ目243mは物見台か高八山城副郭!。
石生西河原城:分水界展望所西北端曲輪の切岸山城レポートとしては縄張り・顕著な土塁・空堀・曲輪等遺構が少なく消化不良気味…再訪時に補足したい。更に辿ると譲葉山や柏原町街を見下ろせる狭いが台地状の高八山(330m)が城域最高所の高八山城主郭。尾根続きの土橋付き堀切を下り登り返すと反射板が見える清水山への登山ルート。
浄福寺砦・南郭北端曲輪と主曲輪の段差(切岸1.5m程)
”国威宣揚”石塔から「藤ノ目」迄の尾根筋は殊に西面に竪堀状を多く見る。尚:清水山の北方山裾に妻木主計の石負砦か西河原城が、西尾根先端部には浄福寺砦(仮称)がある。鳳翔寺門前を経て西河原城への玄関口や現:水分れ公園口から春日町歌道(うとう)谷の黒井盆地西南玄関口への通行監視を兼ねたものか?
八幡神社裏参道から「高谷忠魂殿」への連絡道直ぐ上部の広い削平段「旧千日寺跡のステ女公園」からと八幡神社裏参道から「高谷忠魂殿」へ向かう山道があるが此の通りの直ぐ上部にも広い曲輪がある。神宮寺か神社関連と思えるが未だ祠が祀られている高谷公園は、単に慰霊地として整地された場所ではなく嘗て砦跡ではなかったか…との思いは捨てきれない…
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