明智光秀「諭しの山」 丹波市
山城の落城に関わる戦国の悲話は多いが、圧倒的勢力で侵攻し優位に立っ城攻めの付城・陣城が伝承として残る例は少ないようですね。篠山:八上城の付城群に比べ丹波:黒井城攻め明智光秀の付城群は春日町の茶臼山城(野村 188m)と氷上町の横田城(石生 198m)の他は余り知られないが? 柏原町の茶臼山砦(柏原町下町沖田 130m)を知る人は少ないでしょうね!!。
八幡山城・尾根筋の櫓台状と南曲輪前後を堀切で遮断…!!今はゴルフ練習場と集合住宅が立ち並ぶ丘陵北端部?に古墳のマウンドを利用したと思える高見城監視に明智方の砦が築かれていたと郷土史いう。宅地開発により古墳調査され其の後は工業団地の埋め立て用にと山は姿を消したが柏原八幡社に本陣を置いた光秀が左程も遠くない茶臼山(柏原町下町)まで巡回した際のエピソードが伝わる(注:八幡山城=加伊原新城の場合・築城は黒井城落城時の為、
茶臼山砦からも挙田の田園風景の先の高見城砦群が望める付城ではなく戦後処理…等代官事務が主要の本陣か?)…が其れでは話が進まない…?ので…:篠山・丹波境界の鐘ヶ坂に金山城を築き拠点として・八幡山城を攻略した光秀軍が本陣とし、間近に黒井城支城で赤井五郎(忠家)の拠る高見城攻略のため・高見城に近い茶臼山砦に伏兵を送って監視させた…とします。
茶臼山砦の妙見堂から高見城を遠望 しかし一向に高見城の城兵に動きなく「城は空っぽの様に静まっているぞ」・「威勢に圧されて黒井城へ逃げたか?」・「丹波鬼とも呼ばれる城兵の奴等は強いので油断は禁物…」と話し合ってはいたが・夜が更けるにつれ緊張の糸は緩みます。「一寸休ませてもらうぞ・なんせ三日三晩寝ずの番では…」・「寝ていないのはお互いじゃ・
茶臼山西先端部:古墳マウンド使用の曲輪交替で休もう…」…が交替の約束も相手の寝姿に:ついつい監視役も眠気に誘われ「敵も静かじゃ・俺一人寝ても未だ何人も居て見てくれる…」と一人・二人と寝転ぶと残る者も堪らず、また早く起された者も夢うつゝ。平穏な城の様子に心許し・戦陣の疲れに伝令の者さえ眠ってしまう。柏原本陣では何の連絡もなく伝令を走らせたが「敵情に動きはない」との返事のみ。
土橋付堀切?不図:光秀は思い立ち早々に巡視に馬を引出した。大声を出して馬の先に駆出す小姓を戒め・密かに茶臼山に到着した光秀を伏兵達は知らず眠りこけていた。怒りの目で睨みつけながらも兵を起さず・光秀は「此れでは伏兵の役目は務まらぬ・今後の見せ示めに…」と”明智の旗印”を持ち帰った。
土橋付堀切から西端までの緩斜な尾根筋眠りから覚めた兵達は殿から預かった旗印がないのに吃驚・打ち首覚悟で其の旨を本陣へ申し出た。光秀が自ら持ち帰った事がわかり無言の警告に心服し光秀の馬前で死ぬ事を誓い合ったと云い茶臼山を”さとしの山”と呼ぶようになった…此の伝承は”兵庫丹波の森協会「丹波のむかしばなし」の何号”かにも載せてある筈!?
(「由緒を尋ねて」昭和30年丹波新聞 を参照)
八幡山城・尾根筋の櫓台状と南曲輪前後を堀切で遮断…!!今はゴルフ練習場と集合住宅が立ち並ぶ丘陵北端部?に古墳のマウンドを利用したと思える高見城監視に明智方の砦が築かれていたと郷土史いう。宅地開発により古墳調査され其の後は工業団地の埋め立て用にと山は姿を消したが柏原八幡社に本陣を置いた光秀が左程も遠くない茶臼山(柏原町下町)まで巡回した際のエピソードが伝わる(注:八幡山城=加伊原新城の場合・築城は黒井城落城時の為、
茶臼山砦からも挙田の田園風景の先の高見城砦群が望める付城ではなく戦後処理…等代官事務が主要の本陣か?)…が其れでは話が進まない…?ので…:篠山・丹波境界の鐘ヶ坂に金山城を築き拠点として・八幡山城を攻略した光秀軍が本陣とし、間近に黒井城支城で赤井五郎(忠家)の拠る高見城攻略のため・高見城に近い茶臼山砦に伏兵を送って監視させた…とします。
茶臼山砦の妙見堂から高見城を遠望 しかし一向に高見城の城兵に動きなく「城は空っぽの様に静まっているぞ」・「威勢に圧されて黒井城へ逃げたか?」・「丹波鬼とも呼ばれる城兵の奴等は強いので油断は禁物…」と話し合ってはいたが・夜が更けるにつれ緊張の糸は緩みます。「一寸休ませてもらうぞ・なんせ三日三晩寝ずの番では…」・「寝ていないのはお互いじゃ・
茶臼山西先端部:古墳マウンド使用の曲輪交替で休もう…」…が交替の約束も相手の寝姿に:ついつい監視役も眠気に誘われ「敵も静かじゃ・俺一人寝ても未だ何人も居て見てくれる…」と一人・二人と寝転ぶと残る者も堪らず、また早く起された者も夢うつゝ。平穏な城の様子に心許し・戦陣の疲れに伝令の者さえ眠ってしまう。柏原本陣では何の連絡もなく伝令を走らせたが「敵情に動きはない」との返事のみ。
土橋付堀切?不図:光秀は思い立ち早々に巡視に馬を引出した。大声を出して馬の先に駆出す小姓を戒め・密かに茶臼山に到着した光秀を伏兵達は知らず眠りこけていた。怒りの目で睨みつけながらも兵を起さず・光秀は「此れでは伏兵の役目は務まらぬ・今後の見せ示めに…」と”明智の旗印”を持ち帰った。
土橋付堀切から西端までの緩斜な尾根筋眠りから覚めた兵達は殿から預かった旗印がないのに吃驚・打ち首覚悟で其の旨を本陣へ申し出た。光秀が自ら持ち帰った事がわかり無言の警告に心服し光秀の馬前で死ぬ事を誓い合ったと云い茶臼山を”さとしの山”と呼ぶようになった…此の伝承は”兵庫丹波の森協会「丹波のむかしばなし」の何号”かにも載せてある筈!?
(「由緒を尋ねて」昭和30年丹波新聞 を参照)
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