土倉城異変 三田市

羽束(はつか)川沿いに県道37号を北に向かう高平地区の十倉から小柿を経て丹波篠山市の曽地・日置に通じる丹波街道筋ある観福寺は平安時代:多田庄に属し多田源氏の時代から開かれた文化の中心地で孝徳天皇の大化年中(645頃)法道仙人開基を伝える真言宗の古刹。天文10年(1541)に火災で焼失したが翌11年には
            観福寺山門
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十倉城主:森本備後守信正が再建に着手し天文17年(1548)山門(仁王門・県指定重要文化財)…天文22年(1553)頃には森本備後守孫兵衛光房により再建・復興成り観福寺復興に尽力した棟札が観福寺・十倉今宮神社(観福寺は神護寺?)に上がる。観福寺の南約800m程:十倉の長慶寺からが大船山登山口。
            観福寺山門と川原砦(堂山330m)
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その北に三角山の小山が十倉城(森本城)で永禄年間(1558-70)頃の十倉城主は森本光房の子?:森本備後守入道道賀がいる…が城史の詳細は不詳。道賀の奥方は赤松一族の別所氏から迎えていた。永禄年末期頃なら三田市北部(後川・母子・永沢寺…)
         十倉城:自然石を切岸の三ノ丸(西曲輪)と帯曲輪
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は多紀郡(篠山市)八上城波多野秀治(妹が三木城主別所長治の妻)の統治下にあり天正3年明智光秀の丹波攻めに遭う頃迄?…は八上城との関係は深かった?…。奥方は哀れみ深く・身も心も美しく・憐れみ深い人柄は城中でも評判だったが
         帯曲輪東端から二ノ丸(東曲輪)に入る虎口部の石列
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何時の頃からか城中の侍従らの”やっかみ”からか…奥方は敵対することとなってしまった別所氏の諜(まわし)者らしいとの讒言から、何かにつけ奥方を悪く言うようになり・無実の疑いをかけれた奥方は強く否定してはいたが
       長慶寺南:十倉館近・居館らしい?神社と十倉城(三角山)
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城主:道賀も疑いを抱くようになる。正直に答えるほど道賀の怒りをかい”主人に向かって口答えした”と逆上した道賀は・奥方の首を刎ね、首と胴を別々にして埋めてしまう。其の後:首塚や土倉館には毎晩のように亡霊が出はじめ
         十倉館跡(圃場整備で消滅!? 堀・土塁跡を地形で推定)
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夢にうなされた道賀は、無実を訴える奥方を疑い打ち首にした自分の仕打ちを悔いて、首と胴を一緒にして法要を行ない丁重に供養した。それ以来:亡霊は出なくなり元の平和な十倉に戻った…十倉城異変!! (三田の民話 三田市教育委員会発行から)

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