松若物語Ⅰ「越水城と鷹尾城」 西宮市

阪急電車夙川駅を東に約500m程で札場筋高架下商店街の北側:西田公園からR171号へ東西に抜車道車道(旧山陽道・旧西国街道の要衝でもあった)から北方の住宅街の中の坂道を上り始めるところ。阪神大震災以前:更に西田公園が万葉植物園等公園整備される以前には桜谷町の一軒の屋敷の石積塀の一部に
     「越水城趾」碑は大社小学校(二ノ丸跡)の南東角に移設されている
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越水城趾」碑が石垣塀の一部として組み込まれていた!。桜谷町南の丘陵上が本丸跡か?…桜谷公園を経て詰め上がる高台の大社小学校(二ノ丸跡)の南東角に現在の城趾碑が移設され案内説明板も立つ越水は小清水とも書かれ良質の水に恵まれた処で城ヶ堀の地名も残る一帯。
         大社小学校付近:南北丘陵上へは急傾斜の道が交差する
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細川氏内紛には高国方に付き:永正8年(1511)細川澄元・三好長輝等の軍に攻められ鷹尾城を落とされ丹波に逃れた瓦林対馬守政頼も高国が京都を回復し澄元軍を四国・阿波に追い:政頼も鷹尾城を回復するとともに日野神社にあった        城山から桜谷町へ:左端部付近が本城か?
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瓦林城(西宮市日野町)と芦屋鷹尾城の間の小清水の丘に永正13年(1516)本城と
外城から成る越水城を築いて移った。永正16年(1519)四国に逃れていた細川澄元が再起し阿波から上洛し兵庫に上陸した澄元軍は神呪寺南の丘陵(甲陽園の
            大社小学校に移設された越水城趾碑
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目神山や北山公園付近か ?)に陣を構えて越水城に迫ります。救援の高国軍との合戦はなかなか決着がつかなかったが:翌17年:瓦林政頼の突然の開城した理由は不詳だが越水城は瓦林政賴の死後:澄元の家臣三好長慶を置き天文22年(1552)
           芥川城趾碑(高槻市)
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芥川城(高槻市)に移るまで長慶の本拠城となる。さて越水城・瓦林城・鷹取城の説明を先走り過ぎたので本題内容が重複するかも?:永正7-8年頃に戻し、高座川に沿って六甲山登山の第一人気コース・芦屋ロックガーデン入口の高座の滝から
               瓦林城跡碑
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多くのハイカーと別れ鷹尾山(城山)~荒地山に向かう鷹尾山尾根筋には大阪城築城の石切り場があり、最高所付近の城山に瓦林城の支城:鷹尾城(芦屋城)がありました。永正7年(1510)足利12代将軍義稙の頃は内乱が続き将軍の実力も衰え・
            荒地山縦走路から望む鷹尾城
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家臣たちも互いに勢力を争っていた。攝津国・豊島(テシマ)地方の在地領主:瓦林対馬守政頼は京都の細川高国に従い・西宮に越水城を築いたが、この事で阿波の細川澄元・三好長輝や淡路の細川尚春と手を組み高国らを除こうとする灘の地侍達の抵抗に遇う。次回:松若物語Ⅱ 「松若丸」   瓦林正頼記(別名:松若物語)  

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