生野義挙Ⅲ 奥丹波の志士:片山九市・伊藤龍太郎

朝来市生野町銀谷(かなや)へ向かう国道が口銀谷へのR429号分岐手前の峠道・右手コーナーの小公園に”生野義挙”の大きな石碑があったが見掛けなかった?…移設されたのかも!。口銀谷の観光駐車場側に生野代官所跡・生野義挙跡の石碑をみる。維新の夜明けを前に(明治維新の六年前)幕末に早過ぎた尊皇攘夷の挙兵に
            生野義挙址・顕彰碑
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勤王の志士達は逆賊として5年後に迎える”明治維新”を目前に夢を潰え・無念の死を迎えることとなった。文久3年(1863)8月17日(新暦:9月29日)に起こった吉村虎太郎ら尊皇攘夷派志士が公家:中山忠光(過激な攘夷論者:明治天皇の叔父)を主将として大和国で挙兵し大和五條代官所を占拠して倒幕の魁となった天誅組の変
          生野代官所跡(生野城)の石碑
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(大和義挙・大和の乱)だったが翌8月18日の政変(新暦:9月30日)により尊皇攘夷派七人の公家が京都を追放され長州に落ち延びた【七卿落ち】。一日にして逆賊となり幕府軍の追討を受け壊滅した「大和の乱」だが其れを知らず:孤立する天誅組を応援しょうと呼応する浪人らの倒幕運動は全国に拡がり
             鉱山管理の地役人邸
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(倉敷代官所や総社市の浅尾藩陣屋を襲撃したリーダー立石孫一郎)や、但馬地方でも尊皇攘夷派が生野町口銀谷の生野代官所を占拠し本陣として挙兵した。8月18日の政変に京都を逐われた筑前藩士:平野國臣(平野二郎)・南八郎(河上弥市)・多田弥太郎等が公卿:澤宣嘉を奉じ天誅組に呼応した生野義挙の史跡は
         若宮神社:生野義挙「勤皇志士」顕彰碑
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R9号:若宮神社にも中嶋・黒田の顕彰碑)が立つ。幕末最初の倒幕の狼煙は勤皇の志士達の倒幕意識を奮い起たせ農兵を募る「三年間年貢半減の約束…」等の檄文に即日朝来・養父から数千人が生野の本陣に集結した生野義挙(但馬の変)だが、天誅組:大和義挙の敗戦の報を知り・計画中止か強行か意見が対立するが、
             若宮神社参道前「生野義挙」案内板
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必要な武器・銃器の調達が遅れた事で再挙を謀らねば大和義挙と同じ敗戦の憂き目をみる事になるだろうと解散することに決したが総帥:公卿の沢(主水正)宣嘉卿や此れに従った志士等も脱出して計画中止と全員の退去が決定した。徹底抗戦派だった南八郎・戸原卯橘らは朝来郡山口村の岩洲山の妙見堂や
         護国神社:生野義挙十七志士碑(背後に志士自刃の山伏岩)
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山麓西念寺(山口護国神社)に布陣して豊岡藩・出石藩の出陣に備えていたが「8月18日の政変」に計画が瓦解したことを知った農兵達に竹槍・鉄砲で追い立てられ、ついに十三人が自決し他の者も射殺されたり捕縛され決起から僅か3日で幕府諸藩の兵力に押さえ込まれ破陣・挙兵は失敗に終わり壊滅:麓に下り
          妙見宮」石標のある参道!!入口
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山口護国神社の”山伏岩”に「今月今日討死」と血書して自刃・また付近で討死。後に京都より送られて来た同志4人を加えた17名の志士の碑も建てられている”生野義挙史跡”が山口護国神社。但馬の変は尊皇攘夷派の浪人が企てた討幕運動は郷民の農兵組織を頼ったものだった。
         生野義挙の志士13名が一時籠った岩須山の妙見堂
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所詮:民衆の支持を得た革命軍ではなく幕府側の討伐攻撃を受けると指導部は分裂・農兵は離散し、逆に農民一揆が起こり計画が瓦解したことを知った農兵達に竹槍・鉄砲で追い立てられ生野の変は・あっけなく失敗したが:天誅組の挙兵とともに明治維新の導火線となったと評価されている。 
          山口護国神社(生野義挙史跡)
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生野義挙について長々記述したが:氷上郡(源:丹波市)出身者にも”生野の変”に参加した尊皇攘夷派の志士:片山九市(挙兵に参加のため木村愛之助を名乗る:春日町黒井)・伊藤龍太郎(春日町中山:三尾山麓)がおり春日町の兵主神社付近?には片山九一の顕彰碑も有る筈だが見つからず?、片山九市は出石藩に捕らえられ 
          妙見堂の石垣部と出曲輪主郭部北端曲輪
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元治元年7月19日京都六角牢で処刑された。伊藤龍太郎は詳細不詳(生野で剣道場主となったが…?)…本陣解散に驚いた農兵達は裏切られた思いで、志士達に鉄砲や竹槍を向け始め、勤皇の志士達は農兵と戦わねばならなくなってしまった。先陣となった妙見山に集結する農兵と戦う訳にもいかない志士たちの 無念さは如何ばかりだったか?。
         護国神社:西園寺公望揮毫の”殉節忠士之墓”碑
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「生野の変」に犠牲となった32人!?については明治になって追贈が行なわれ・平野国臣・中嶋太郎兵衛河上弥市ら奇兵隊や氷上郡(現:丹波市)から対幕軍に加わった片山九市・伊藤龍太郎(共に従五位)も義挙として山口護国神社に合祀されている。
  Wikipedia・現地案内板・「画報近代百年史 第2集 国際文化情報社 昭和28年」…参照

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