淀山城(波々伯部城) Ⅰ 篠山市
京都から亀岡を経て八上城から篠山城へ”デカンショ街道(R372号線)”が通じます。延喜式の山陰街道は京街道・丹波街道として交通・文化の基幹で京都・丹波・播磨や但馬方面への要衝です。西国街道の摂津池田・茨木や、川西方面からは妙見街道・能勢街道(R173号線)が天王坂を越えて篠山から綾部・福知山方面へ向かう。
淀山城主郭北切岸・二ノ郭間の堀切此の能勢街道(R173号)と京街道(R372号線)の交差する東面を”丹波の青鬼”籾井教業の籾井城が、R173号の北方面には”荒木鬼”細工所城の荒木氏が、R372号を西の篠山市街に向い小野の峠(山陰道の駅家(うまや)小野駅が在った処)を越えると淀山城(302m尾根南端に主郭を置く)を本拠城とする波々伯部氏の領地。
主郭の大堀切東下の腰曲輪:横堀から竪堀に繋がる遺構波々伯部神社前を通る旧道(篠山街道)がR372号(デカンショ街道)と交差し400mほど先で再び372号に出るが、直ぐ南を流れる辻川沿いに淀山城支城の南山城・東山城があり、三城が延喜式山陰道が福住から小野駅を経て八上城下に入ってくる東口の要衝:篠山街道(デカンショ街道)を監視していたのでしょう。
主郭切岸(10-13m)西下には帯曲輪外面を露岩を削った土塁や竪堀がある足利尊氏の旗揚げに一番に駆けつけた丹波玉巻城の久下氏は尊氏側近で同じ関東武者の大山城の中澤氏(黒井城主:荻野直正が赤井直正とされているように、中澤氏が長沢氏…と)とは以前より気脈を通じ情報を得ていたものか。
主郭西側:空堀?(帯曲輪!土塁道?)南端は虎口受け?曲輪状?籾井家日記に波多野氏重臣七頭に丹波玉巻城側の久下氏・穂壷城の赤井景遠。七組に朝日城主:荻野朝道・遠阪城の足立光秀・綾部市や福知山市の江田氏・須知氏や先鋒衆に小野木氏・谷氏…とあるが七頭の大山城主は中澤氏の筈?だが長沢姓で
主郭と祠跡方形石列が遺る南腰曲輪載せてあり…黒井城主赤井…と同様に以来:長沢氏で通っているようで…何かにつけ疑わしいが…。平安時代:承徳2年(1098)有力農民の田が京都祇園社(八坂神社)に寄進され成立した祇園社領:波々伯部保は:治承4年(1180)宇治川の戦いに敗れ
波々伯部神社紋は波々伯部氏家紋と同じ!!松喰い対鶴丸
丹波に逃れた房光以後:源義家の末裔という。地元に居た下司の波々伯部盛経が承久年中(1219-22)祇園社より任命された丹波多紀郡では古参(源義家の末裔)の在地有力豪族だが淀山城の築城年代や築城主については不明とされる?。
主郭南面の土塁・下段の南腰曲輪に祠跡の礎石が残る波々伯部氏は代々尊氏に属して勢力を延ばし建武4年(1337)伯耆国稲光保の地頭職を任ぜられ次郎左衛門尉為光が淀山城を築き波々伯部氏を名乗り:明徳2年(1391)明徳の乱に光豊・光基等が功を立て周囲に一族の支城を築く。八上城波多野氏の台頭により傘下に組み入れられ重臣:七組の一方の旗頭として活躍し・籾井氏が
淀山城主郭から東山城(中央部左)と右に飛曽山(辻冨士662m)・シドロ北峰?(723m)京からの東口を押さえ、さらに波々伯部氏が加えて摂津能勢方面からの通行監視の八上城東口を押さえて、京街道(デカンショ街道)を挟んで南に東山城(為光後裔・光興と子の光久)・南山城(為光の孫光尚)・畑市城・垣屋城(一枝城・西ヶ谷城)は為光の後裔:永正年中(1504-21)波々伯部孫四郎基継の築城。 =淀山城Ⅱに続く=
「中世城館・荘園遺跡」兵庫県教育委員会・八上城遺跡群綜合研究・現地案内板参照
淀山城主郭北切岸・二ノ郭間の堀切此の能勢街道(R173号)と京街道(R372号線)の交差する東面を”丹波の青鬼”籾井教業の籾井城が、R173号の北方面には”荒木鬼”細工所城の荒木氏が、R372号を西の篠山市街に向い小野の峠(山陰道の駅家(うまや)小野駅が在った処)を越えると淀山城(302m尾根南端に主郭を置く)を本拠城とする波々伯部氏の領地。
主郭の大堀切東下の腰曲輪:横堀から竪堀に繋がる遺構波々伯部神社前を通る旧道(篠山街道)がR372号(デカンショ街道)と交差し400mほど先で再び372号に出るが、直ぐ南を流れる辻川沿いに淀山城支城の南山城・東山城があり、三城が延喜式山陰道が福住から小野駅を経て八上城下に入ってくる東口の要衝:篠山街道(デカンショ街道)を監視していたのでしょう。
主郭切岸(10-13m)西下には帯曲輪外面を露岩を削った土塁や竪堀がある足利尊氏の旗揚げに一番に駆けつけた丹波玉巻城の久下氏は尊氏側近で同じ関東武者の大山城の中澤氏(黒井城主:荻野直正が赤井直正とされているように、中澤氏が長沢氏…と)とは以前より気脈を通じ情報を得ていたものか。
主郭西側:空堀?(帯曲輪!土塁道?)南端は虎口受け?曲輪状?籾井家日記に波多野氏重臣七頭に丹波玉巻城側の久下氏・穂壷城の赤井景遠。七組に朝日城主:荻野朝道・遠阪城の足立光秀・綾部市や福知山市の江田氏・須知氏や先鋒衆に小野木氏・谷氏…とあるが七頭の大山城主は中澤氏の筈?だが長沢姓で
主郭と祠跡方形石列が遺る南腰曲輪載せてあり…黒井城主赤井…と同様に以来:長沢氏で通っているようで…何かにつけ疑わしいが…。平安時代:承徳2年(1098)有力農民の田が京都祇園社(八坂神社)に寄進され成立した祇園社領:波々伯部保は:治承4年(1180)宇治川の戦いに敗れ
波々伯部神社紋は波々伯部氏家紋と同じ!!松喰い対鶴丸
丹波に逃れた房光以後:源義家の末裔という。地元に居た下司の波々伯部盛経が承久年中(1219-22)祇園社より任命された丹波多紀郡では古参(源義家の末裔)の在地有力豪族だが淀山城の築城年代や築城主については不明とされる?。
主郭南面の土塁・下段の南腰曲輪に祠跡の礎石が残る波々伯部氏は代々尊氏に属して勢力を延ばし建武4年(1337)伯耆国稲光保の地頭職を任ぜられ次郎左衛門尉為光が淀山城を築き波々伯部氏を名乗り:明徳2年(1391)明徳の乱に光豊・光基等が功を立て周囲に一族の支城を築く。八上城波多野氏の台頭により傘下に組み入れられ重臣:七組の一方の旗頭として活躍し・籾井氏が
淀山城主郭から東山城(中央部左)と右に飛曽山(辻冨士662m)・シドロ北峰?(723m)京からの東口を押さえ、さらに波々伯部氏が加えて摂津能勢方面からの通行監視の八上城東口を押さえて、京街道(デカンショ街道)を挟んで南に東山城(為光後裔・光興と子の光久)・南山城(為光の孫光尚)・畑市城・垣屋城(一枝城・西ヶ谷城)は為光の後裔:永正年中(1504-21)波々伯部孫四郎基継の築城。 =淀山城Ⅱに続く=
「中世城館・荘園遺跡」兵庫県教育委員会・八上城遺跡群綜合研究・現地案内板参照
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