淀山城(波々伯部城) Ⅱ 篠山市
淀山城(波々伯部城) Ⅰから続く:波々伯部神社を過ぎると東南に秀麗な山容の辻富士(飛曾山)が見えてくる。此処:辻集落の北方の貯水池横の小山302m(南北300m以上!?、比高40m程の小山には丹波の古豪族:波々伯部氏の淀山城がある。
国道372号(辻)貯水池から淀山城東面山麓を貯水池がグルリと囲み水濠・谷の奥へと続く田圃は沼田堀となったものか?。低丘陵東に辻川・西に曽地川・北に篠山川(籾井川も合流)が流れていることからも淀山城の名がある。今までニノ丸から西の田圃側へ降りていたが
淀山城と改称(波部氏)による波々伯部氏顕彰碑と辻集落伐採倒木で下降道は塞がれていた。東の貯水池沿いからが楽な登城ルートと考えていたが農道へは侵入禁止なのかも。再訪では辻自治会により谷奥に続く圃場と貯水池北西端から整備されている訪城ルートをとる。圃場・谷の奥を詰めると
淀山城主郭と南側の腰曲輪(祠の礎石石列が遺る)栃梨(栃梨城下 荒木氏支城)に通じる。縄張図付き城趾案内板が立つ。縄張り作成者の名は無いが八上城国指定の為の策定資料「丹波八上城遺跡群に関する総合研究」では城郭作図を担当されている中世城郭研究家:高橋成計氏のもの!。
主郭南の腰曲輪(二段目)下方に見る土留め石列20数年以前に比べ遺構を確認し易く案内標識もある踏跡を追って主郭下方・二ノ郭下方の二曲輪は広すぎる井戸曲輪があるが居住性の高い平坦地形。主郭下方のは石組井戸で殆ど埋まり下草・羊歯類に覆われているが下草藪を分ければ
広すぎる二つの井戸曲輪は館跡か・一方の井戸は石組!!石組が顔を出す筈…。南に延びる尾根先の最高所:主郭には城主:波々伯部氏末裔?(波部に改称)による顕彰碑が建ち南端に土塁が残る。南一段下部曲輪には方形石列が残るが祠跡。其の下段には西・南から東に帯曲輪が延び・更に南下方の
主郭・二ノ郭西を巻く空堀状は二ノ郭に入る土塁道!小曲輪に土留め石列を見る。尾根上を北へ主郭から二ノ郭・二ノ郭から三ノ郭の北斜面は何れも13-17m程の高い切岸下に大堀切・長く低い段差(3-70cm未満?)の3ー4曲輪が並ぶ三ノ郭先端西に竪堀が一条。主郭・二ノ郭東斜面の腰曲輪には
主郭北面・二ノ郭間の大堀切横堀に繋ぐ竪堀や左右・下方に幾条もの比較的大規模な竪堀群を設けている…。淀山城の縄張りからは当初は新興勢力:八上城の波多野氏を警戒したものか:西斜面下には主郭・二ノ郭間を堀切?というより南正面虎口から続く土塁も遺る
主郭北・二ノ郭間の大堀切西面:土塁道?北端の竪堀横堀を兼ねた?大手道!が主郭下部から二ノ郭間の堀切に至り・西に廻り込んで主郭に入る?。西面にも竪堀が2-3条を観察できるが東面程堅固ではなく、当初は新興勢力八上城・波多野氏に対する遺構だったかも?。東面は波多野氏麾下の重臣:
二ノ郭東下曲輪を巻く堀は横堀から竪堀に繫がる波々伯部氏が天正3年以後の明智光秀による八上城侵攻に備え、腰曲輪・帯曲輪・深く長い竪堀と横堀・鉄砲の攻撃を意識した防禦の塹壕状曲輪?遺構も備えている…が!?。光秀の八上城包囲に波々伯部光𠮷一族は城を捨て八上の篭城に加わったが
横堀から竪堀に繋ぐ二ノ郭東面下:井戸曲輪まで落ちる竪堀傍の腰曲輪天正5年頃(?八上落開城前)に城を退去した光広は此の地に帰農し・波々伯部から波部に姓を改めて光吉の子は農業と酒造業(!酒屋)を営み繁盛したと伝わる。淀山城主郭の波々伯部氏顕彰碑に波部…とあり後裔による建立のようです…
「中世城館・荘園遺跡」兵庫県教育委員会・八上城遺跡群綜合研究・現地案内板参照

国道372号(辻)貯水池から淀山城東面山麓を貯水池がグルリと囲み水濠・谷の奥へと続く田圃は沼田堀となったものか?。低丘陵東に辻川・西に曽地川・北に篠山川(籾井川も合流)が流れていることからも淀山城の名がある。今までニノ丸から西の田圃側へ降りていたが
淀山城と改称(波部氏)による波々伯部氏顕彰碑と辻集落伐採倒木で下降道は塞がれていた。東の貯水池沿いからが楽な登城ルートと考えていたが農道へは侵入禁止なのかも。再訪では辻自治会により谷奥に続く圃場と貯水池北西端から整備されている訪城ルートをとる。圃場・谷の奥を詰めると
淀山城主郭と南側の腰曲輪(祠の礎石石列が遺る)栃梨(栃梨城下 荒木氏支城)に通じる。縄張図付き城趾案内板が立つ。縄張り作成者の名は無いが八上城国指定の為の策定資料「丹波八上城遺跡群に関する総合研究」では城郭作図を担当されている中世城郭研究家:高橋成計氏のもの!。
主郭南の腰曲輪(二段目)下方に見る土留め石列20数年以前に比べ遺構を確認し易く案内標識もある踏跡を追って主郭下方・二ノ郭下方の二曲輪は広すぎる井戸曲輪があるが居住性の高い平坦地形。主郭下方のは石組井戸で殆ど埋まり下草・羊歯類に覆われているが下草藪を分ければ
広すぎる二つの井戸曲輪は館跡か・一方の井戸は石組!!石組が顔を出す筈…。南に延びる尾根先の最高所:主郭には城主:波々伯部氏末裔?(波部に改称)による顕彰碑が建ち南端に土塁が残る。南一段下部曲輪には方形石列が残るが祠跡。其の下段には西・南から東に帯曲輪が延び・更に南下方の
主郭・二ノ郭西を巻く空堀状は二ノ郭に入る土塁道!小曲輪に土留め石列を見る。尾根上を北へ主郭から二ノ郭・二ノ郭から三ノ郭の北斜面は何れも13-17m程の高い切岸下に大堀切・長く低い段差(3-70cm未満?)の3ー4曲輪が並ぶ三ノ郭先端西に竪堀が一条。主郭・二ノ郭東斜面の腰曲輪には
主郭北面・二ノ郭間の大堀切横堀に繋ぐ竪堀や左右・下方に幾条もの比較的大規模な竪堀群を設けている…。淀山城の縄張りからは当初は新興勢力:八上城の波多野氏を警戒したものか:西斜面下には主郭・二ノ郭間を堀切?というより南正面虎口から続く土塁も遺る
主郭北・二ノ郭間の大堀切西面:土塁道?北端の竪堀横堀を兼ねた?大手道!が主郭下部から二ノ郭間の堀切に至り・西に廻り込んで主郭に入る?。西面にも竪堀が2-3条を観察できるが東面程堅固ではなく、当初は新興勢力八上城・波多野氏に対する遺構だったかも?。東面は波多野氏麾下の重臣:
二ノ郭東下曲輪を巻く堀は横堀から竪堀に繫がる波々伯部氏が天正3年以後の明智光秀による八上城侵攻に備え、腰曲輪・帯曲輪・深く長い竪堀と横堀・鉄砲の攻撃を意識した防禦の塹壕状曲輪?遺構も備えている…が!?。光秀の八上城包囲に波々伯部光𠮷一族は城を捨て八上の篭城に加わったが
横堀から竪堀に繋ぐ二ノ郭東面下:井戸曲輪まで落ちる竪堀傍の腰曲輪天正5年頃(?八上落開城前)に城を退去した光広は此の地に帰農し・波々伯部から波部に姓を改めて光吉の子は農業と酒造業(!酒屋)を営み繁盛したと伝わる。淀山城主郭の波々伯部氏顕彰碑に波部…とあり後裔による建立のようです…
「中世城館・荘園遺跡」兵庫県教育委員会・八上城遺跡群綜合研究・現地案内板参照
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