大山城(太尾山城) Ⅱ 神崎郡神河町

大山城 Ⅰから続…峻険な激急斜面が突然・緩斜面となる其所が大山城趾の北西末端の数曲輪を抱込む様な:折れを伴う大堀切(大空堀)の外側を覆う土塁線が・此の緩斜面は緩衝帯というより逆に:緩斜面を攻め上る敵兵を狙う塹壕兼務?。峻険な山上部に大堀切・空堀・高い切岸の要害堅固な施設の重要性も主郭に立ち感じる。
        旧大山小学校前バス停から望む大山城(山裾を猪篠川が巡る)
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北方に但馬境の真弓峠(生野峠)に向かう播但連絡道路とR312号(但馬街道)。南方には山間を鶴居・市川町・福崎町への市川沿いを一望に望める但馬街道の要衝が一望の下に望まれる。川筋に突出す小山は全山岩山!?の飯盛山城(屋形城)だろうか?。大山城は城主等城史不詳だが但馬山名氏に対する
        屋形城主郭南1段下曲輪と市川:西に谷城(中央右)
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播磨赤松氏最前線の重要な監視に充たり・砦規模から守備・堅固な基地として大規模な築造を施された山城と感じる…。主郭(凡そ25x12m)四方を6-8m以上の高い切岸で要害性を高めている。但馬側の北斜面にある二つばかり曲輪は伐採された木々が高い切岸下に積み上げられ堀切かと思えた…が
               城域西端の段曲輪群
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主郭直下とはいえ・単独の小腰曲輪に堀切を設ける用はなさそう。主郭東の障子場(883.7m)城地場へ延びる尾根筋曲輪の下方にも堀切があり数個の石塊を見ると崩落による自然地形の様!?。西切岸下に堀切を設け向かう10x20m程の副郭からは北に延びる尾根筋に8段ばかり曲輪を連ねるが
       西端:段曲輪に沿う堀切というより・折れ長く延び堀底も幅広い空堀
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此の曲輪群北端曲輪に添って折れを伴う長さ50数mの横堀(大空堀)は圧巻で当城の最大見所。両端は幅広く長い竪堀となって落ちている。西先端部には石積も残る炭焼窯跡の為”木材溜め”が土橋状になっているが幅(5m程)広い大堀切とも云える!。大空堀外側に土塁を積み北・北西尾根からの侵攻防禦を重点とした縄張り。
        大堀切:竪堀で落ちる北西端・土橋?状は林業作業用と炭焼窯跡(右手)
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大山城は播磨・但馬の国境:大山越の道「真弓峠(生野峠)」を眼下に監視出来る位置にある。但馬山名氏は度々播磨への侵攻を繰返し正平6年(1351)山名時氏が大山越を播磨へ侵攻・赤松則祐と大河内城(寺前城・神河町寺前)の攻防では赤松則村の家臣本郷伊豆守が居城したが嘉吉の乱後:播磨侵攻の山名氏により落城。
          寺前城(奥ノ城)主郭の石垣(大堀切から)
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正平8年(1353)にも丹波市青垣から播州峠越か?、多可町加美区から高坂峠?を越え越知川沿いに神河町に入る丹波南朝方と、大山越え(R312号)の猪篠川が越知川に流れ出る「粟賀」「中村」に侵攻した但馬山名氏連合が北朝の赤松勢が法楽寺(神河町中村)で合戦におよび、康安元年(正平16年 1361)7月には
         北西面段曲輪群に沿う堀切稜上岸は曲輪土壇というより土塁線
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美作国の倉懸城を攻めた山名時氏勢に・救援に赴いたが敗退した赤松貞範を追放・貞治3年(1364)美作国守護は時氏二男:山名義理に任じられている。播磨赤松氏が但馬山名氏の侵攻に備えた最前線の城で貞治元年(1362)頃:赤松(円心)則村の嫡男範資の子掃部助直による創築を伝え・足利尊氏の弟:直義から直の字を賜っている。
    大堀切:北端部の東西両稜上岸まで土塁線が延び虎口状だが此方も竪堀で落ちる
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赤松満祐が将軍足利義教を暗殺した嘉吉の乱(1441年)後:山名持豊追討軍が赤松勢を大山城北山麓七宝寺を攻め撃破。また文安1年(1444)播磨奪回を企てる赤松満政と山名軍が真弓峠の合戦に及び:翌年には持豊が陣所としていた!?七宝寺を満政が攻撃する…等、この大山城を中心に粟賀から真弓峠(生野峠)にかけて
     大空堀(?堀切)は堀底幅が広過ぎるが曲輪上から見ると切岸は結構高い
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幾度か戦いが繰返されている。大山城の攻撃は北の七宝寺側・北西の旧大山小学校側からの尾根直登が侵攻口となったものか?。嘉吉の乱(1444年)に滅亡した赤松氏は長禄の変(1457年:長禄元年12月)に再興したが再度:生野峠(真弓峠)に
            副郭から北西へ延びる広い段曲輪群
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山名軍と激突した文明15年(1483)12月赤松政則VS山名政豊の合戦頃の大山城には赤松氏幕下の太尾氏を入れたものか?、赤松軍は大敗し政則への不信感から赤松家は分裂していたが、細川勝元に与した応仁の乱の功に再度:播磨・美作・備前の守護となり播磨から山名氏を追放…播磨国の回復に太尾城に戻っていたものか?。

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