高仙寺山城(酒井氏城) Ⅰ 篠山市
R176号を三田市藍本から日出坂峠を越え篠山市草野へ下ってくると正面右手に油井城(油井酒井党の本拠城)が見えてくる。酒井党は鎌倉殿御家人(関東御家人)で承久の乱(1221)の軍功に相模国(神奈川県)大住郡?の豪族:酒井兵衛次郎政親が多紀郡の酒井郷「主殿(とのも)保・犬甘(いぬかい)保・油井保等」の地頭職を得て
高仙寺山城(松尾山城)主郭と帯曲輪(西面)
来住したのが始まりといわれ始祖:政親の子孝信の弟政重が油井酒井氏の祖とされ、油井酒井党はじめ各所領内の栗栖野・波賀野・初田・当野・南矢代・大沢…等に酒井一族が独自の城を持って拠っている。油井城は天文年間(1532ー55)酒井佐渡守幸貞(10代目)により築かれたと思われます。
高仙寺山城(松尾山城)主郭
八上城:波多野秀治の台頭に波多野氏の旗頭の一人として油井城の他:高仙寺城(丹南町南矢代の酒井金吾)・大沢城(同・大沢の酒井勘四郎)・南矢代城に酒井主水氏治・栗栖野城に酒井政信。波賀野城は矢代酒井党の三郎四郎氏吉が一族(弟の右衛門兵衛)に築かせ勢力を張っており八上城を護る最南端・最前線の城の一つ。
高仙寺山城主郭(南端・下部に帯曲輪が巡る)戦国末期:明智光秀の「丹波攻め」に備えた酒井氏一族最後の詰城として高仙寺山城(松尾山城・酒井氏城)が築城されたものか?。油井城を前景にして背後に鎮まる二つの山が白髪岳と高仙寺山(松尾山)。白髪岳(丹波富士:丹南町の最高峰)から東に延びる縦走尾根上に並び立つ松尾山(高仙寺山)南尾根筋(古市/住山側)中腹には
高仙寺山城主郭:東北下段曲輪の土留石列
大正10年(1921)まで高山寺(現:南八代のR176号傍)があったところ。多紀郡(現:篠山市)鄕士唱歌(明治34年)に♪駅の北には松尾山…古刹とて 今に残れり高仙寺…♪と謳われる本堂跡から松尾山へのコースを西へしばらく進むと大小様々な40数基の卵塔(無縫塔)群が西を向いて並んでいる。
高仙寺山城主郭:東北下段曲輪の土留石列
大化元年(645)法道仙人開基を伝え全盛期の鎌倉時代には阿弥陀・不動・妙見諸堂の七堂伽藍や26もの僧坊を数える松尾山の山岳大寺院:高仙寺跡。平安遷都された桓武天皇の修理改築の勅令により・伝教大師(天台宗宗祖)が比叡山より御来錫され松尾寺として再建復興以来国家の勅願寺となった。
高仙寺山城中郭:南端の「仙ノ岩」(R372号矢代・波賀野方面)眺望絶佳鎌倉時代には栂尾の明恵上人によりもたらされ高貴薬として珍重された中国茶は金山茶と称された丹波茶の始まりで、宇治茶に押されて名前の存在感は薄いが母子(もうし)茶とともに松尾山の北側にある味間地区は丹波霧が育てる「丹波茶の里」です。南北朝期には比叡山天台座主:大塔宮護良親王が
高仙寺山城中郭:「仙ノ岩」傍まで延びる曲輪の石垣北条追討を当山に下され・当地豪族酒井氏と共に大義名分のため南朝に参じて勤皇の誠を尽くしている。此処より松尾山南峰(此処も高仙寺城城塞群の一で石垣積曲輪の城趾)手前の一枚岩の巨岩千ノ岩へロープも混じる急勾配が続くが岩盤上からの展望が楽しめる。 高仙寺山城(酒井氏城) Ⅱに続く
高仙寺山城中郭:北端の「千年杉」から主郭へ
高仙寺山城(松尾山城)主郭と帯曲輪(西面)
来住したのが始まりといわれ始祖:政親の子孝信の弟政重が油井酒井氏の祖とされ、油井酒井党はじめ各所領内の栗栖野・波賀野・初田・当野・南矢代・大沢…等に酒井一族が独自の城を持って拠っている。油井城は天文年間(1532ー55)酒井佐渡守幸貞(10代目)により築かれたと思われます。
高仙寺山城(松尾山城)主郭
八上城:波多野秀治の台頭に波多野氏の旗頭の一人として油井城の他:高仙寺城(丹南町南矢代の酒井金吾)・大沢城(同・大沢の酒井勘四郎)・南矢代城に酒井主水氏治・栗栖野城に酒井政信。波賀野城は矢代酒井党の三郎四郎氏吉が一族(弟の右衛門兵衛)に築かせ勢力を張っており八上城を護る最南端・最前線の城の一つ。
高仙寺山城主郭(南端・下部に帯曲輪が巡る)戦国末期:明智光秀の「丹波攻め」に備えた酒井氏一族最後の詰城として高仙寺山城(松尾山城・酒井氏城)が築城されたものか?。油井城を前景にして背後に鎮まる二つの山が白髪岳と高仙寺山(松尾山)。白髪岳(丹波富士:丹南町の最高峰)から東に延びる縦走尾根上に並び立つ松尾山(高仙寺山)南尾根筋(古市/住山側)中腹には
高仙寺山城主郭:東北下段曲輪の土留石列
大正10年(1921)まで高山寺(現:南八代のR176号傍)があったところ。多紀郡(現:篠山市)鄕士唱歌(明治34年)に♪駅の北には松尾山…古刹とて 今に残れり高仙寺…♪と謳われる本堂跡から松尾山へのコースを西へしばらく進むと大小様々な40数基の卵塔(無縫塔)群が西を向いて並んでいる。
高仙寺山城主郭:東北下段曲輪の土留石列
大化元年(645)法道仙人開基を伝え全盛期の鎌倉時代には阿弥陀・不動・妙見諸堂の七堂伽藍や26もの僧坊を数える松尾山の山岳大寺院:高仙寺跡。平安遷都された桓武天皇の修理改築の勅令により・伝教大師(天台宗宗祖)が比叡山より御来錫され松尾寺として再建復興以来国家の勅願寺となった。
高仙寺山城中郭:南端の「仙ノ岩」(R372号矢代・波賀野方面)眺望絶佳鎌倉時代には栂尾の明恵上人によりもたらされ高貴薬として珍重された中国茶は金山茶と称された丹波茶の始まりで、宇治茶に押されて名前の存在感は薄いが母子(もうし)茶とともに松尾山の北側にある味間地区は丹波霧が育てる「丹波茶の里」です。南北朝期には比叡山天台座主:大塔宮護良親王が
高仙寺山城中郭:「仙ノ岩」傍まで延びる曲輪の石垣北条追討を当山に下され・当地豪族酒井氏と共に大義名分のため南朝に参じて勤皇の誠を尽くしている。此処より松尾山南峰(此処も高仙寺城城塞群の一で石垣積曲輪の城趾)手前の一枚岩の巨岩千ノ岩へロープも混じる急勾配が続くが岩盤上からの展望が楽しめる。 高仙寺山城(酒井氏城) Ⅱに続く
高仙寺山城中郭:北端の「千年杉」から主郭へ
この記事へのコメント
かなり以前に、六十内城の記事を書いておられたのを何度か拝見しております。
六十内城について書かれている記事はほぼありませんので、、。
自分も登城してみたいのですが、獣道でしょうか?
かなり昔のことで覚えておられないかもしれませんが。。
又、お話聞かせてもらえると嬉しいです。
よろしくお願い致します。
中世城郭研究家:高橋成計氏の友人で 「戦いの城・山城…」の”齋監さん”→https://temeraire1839.hatenablog.com/about も六十内城を訪城されているようですが UP記事を見ません? 最近病気のため ブログ更新されていないようですが…?
八木城主:内藤宗勝の討死は 永禄6年 黒井城:荻野直正との和久郷(福知山市)の戦いで…と思っていましたが 永禄8年 綾部市境の三郡山の陣に於ける 和藤合戦 説が有力になってきました 此処には内藤宗勝の墓碑(刻印等無し)と伝えられ 尾州ヶ尾での夜戦による和藤合戦(下原の戦い)について 綾部市山家史誌にあり… http://tanbakiri.web.fc2.com/KYOTO-yamaga-siro-docu.htm#watou 参考になりますれば…
尚 下原公民館前の和藤合戦関連説明書はあるが 天正4年…とあり
山家城の破却令に従わなかったことで訴追された和久氏・白波瀬氏らを探索…
和久氏らが敗走しながらの隠れ砦が周辺の 田野城・赤坂坪砦・安場砦・浅木山城…ではなかったか…? →http://tanbakiri.web.fc2.com/KYOTO-kimioyama-siro-docu.htm#tano
高橋氏も綾部市内の城探索は多く 六十内城の件 機会を見付けて聞いてみます 勿論「縄張り図」もですが…
コメントありがとうございます 「丹波霧の里」天々宇知栗
そうです、2011年の記事を拝見しました
よくぞ登って下さったと思いました
最近はGoogleマップにも登録されたので、どなたか登っておられのでしょうか
どこが登り口なのかいまいちわかっておらず、、天々宇知栗様の記事を参考に今年中には登ってみたいと考えております。
さて 六十内集落から熊野神社を目指してください 国土地理院地図の破線を辿りますが 神社を通らなくとも 暑い夏場でも尾根筋に出れば藪漕ぎなく城域まで到達可能の筈ですが 下草藪なので遺構確認はムツカシイかも?
十二の神社付近からR9号に下ったが城址へ六十内以外 南・東・北からは侵入も脱出も難渋しますよ 現状は知らず お気をつけて行ってらっしゃい
熊野神社までは行ったことがあるのですが、そこから先が不明でした
他からは難航するのですね
記事を頼りに行ってみようかと思います
又、何か新情報あればご連絡下さいませ