高仙寺山城(酒井氏城) Ⅱ 篠山市

南峰城域北端から松尾山(高仙寺城・松尾山城・酒井氏城)への下り口に千年杉(樹齢500年程?)を見て、鞍部を登り返した尾根上に数段の曲輪を観て顕著な最後2m程の段差を越すと南矢代城主(矢代酒井党)酒井主水介氏治が築いたとされる!?
         松尾山城主郭と帯曲輪
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高仙寺城(松尾山城・酒井氏城)本丸跡の広い削平地に着く。酒井氏は八上城:波多野秀治に属し波賀野城には酒井党の右衛門兵衛を入れた。酒井4家(栗栖野・当野・矢代・油井)共通の氏寺が高仙寺だが:永禄年代(1558-70)末期には更に高く急峻な高仙寺山(松尾山)山頂に”酒井城”を築き酒井金吾に守らせた…。
         松尾山城主郭北東下段曲輪を結ぶ登り土塁!と土留め石列!
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天正期の明智光秀”丹波攻め”に備え丹波の山城末期に築城された高仙寺山城(松尾山城・酒井氏城)は、広い帯曲輪を持つ高仙寺山頂部に土留め石列・石積み曲輪も多い主郭・城域の北端に千年杉・南端の腰曲輪には石垣積・千ノ岩のある中郭
         松尾山城主郭北東下段曲輪群
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更に南尾根を下った南郭へと・虎口・竪堀・石垣を積み防禦補強した三カ所に数段の曲輪群を持ち・尾根上に繫がる砦遺構で構成された酒井党結束の拠点があり油井城と共に酒井党最後の詰め城。南矢代城主酒井主人介氏治は天正6年(1578)5月大山城(中澤重基か?:最後の城主は不詳だが…)を救援途中・
         松尾山城主郭から中郭への間にある石門?
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矢を受け落命した?と伝えられ、氏治の墓碑は無縫塔群の遺る高仙寺跡の隅に祀られている。八上城主:波多野秀治兄弟が光秀により処刑され主無き八上城に入った最後の守将:波多野秀香は油井城主:酒井佐渡守重貞の二男(口伝?)。
         松尾山城主郭と広い帯曲輪(南ー西面)
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八上城開城に酒井氏一党の高仙寺城も降伏したものか?明智「丹波攻め」に高仙寺城の合戦はなかったようだが山城に焼き米が発見され・高仙寺ともに兵火に遇い全山焼失したが、高仙寺は宝永3年(1706)再建され次第に堂宇・僧坊も建ち天台宗中本山として復興したが明治の廃仏令により衰減荒廃し、
         松尾山城中郭:仙ノ岩傍の石垣
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大正10年(1921)現在の地(南矢代の国道176号線沿い)に移され改修築されている。高仙寺城(松尾山城)を北方に下る松尾山「文保寺」は八上城主:波多野秀治の遺児甚蔵が八上落城の際女畷を逃れ乳母の里「味間」に隠れ住み・名を快祐と改めて文保寺に徒弟として入門・31歳のとき遷俗し波多野源左衛門定吉を名乗り、
         松尾山城中郭:尾根上南端の石積み
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篠山藩主松平忠国に仕え味間・大沢・網掛・小野原・市原・木津・黒石の七ヶ村代官を勤め波多野秀治の墓所も味間にある。肩越えの辻への分岐の広い削平地は阿弥陀堂跡で3基の石仏があり段下の平坦地には 本堂跡に愛宕堂が建てられ鐘楼・不動堂・宝 蔵等の跡や法道仙人供養塔が残る。
         松尾山城中郭の仙ノ岩(左下小曲輪に石垣・尾根筋は右方)/span>
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