大山城南小城 神埼郡

丹波市から神河町へは:青垣町からR427号:播州峠(播州トンネル)を多可町加美区鳥羽・氷上町から県道78号:清水トンネル(小春ロード)を加美区市原・山南町から県道86号:小野尻峠(小野尻トンネル)を中区鍛冶屋に下り、西脇市方面からのR427号に合流し「寺内」交差点で県道8号(加美宍粟線)に左折し高坂トンネルを抜け
       大山城南小城:土塁を挟む二重堀切
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越知川沿いの集落内を通り抜ける県道8号(旧道)がR312号「粟賀」交差点に出るが、手前200mに越知川に架かる観音橋前の交差点があり、右へは「丹波・京都」への石仏道標があり観音橋を南北に走るのが、明治9年(1878)に開通し・生野鉱山から飾磨港まで49kmを繋いだ「生野鉱山寮馬車道(銀の馬車道)」専用道路だが
        大山城南小城に向かう猪篠川から大山城を望む
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播磨・但馬を結び生野峠(真弓峠)に通じる生野街道。南北朝期:正平8年(1353)越知川沿いに神河町に入る丹波南朝方と大山越え(R312号)の猪篠川が越知川に流れ出る「粟賀」「中村」に侵攻した但馬山名氏連合が、北朝の赤松勢と播州犬寺で知られる法楽寺(神河町中村)合戦に及んでいる。大山城(太尾山城)の築城主は
    杉営濃センターの大山城・南小城”案内板は大歳神社側に移設されるかも?
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貞治元年(1360)赤松掃部助直頼と云いブログ・HPに紹介済なので割愛するが、大山城へは近年:南側から案内板・固定ロープも張られたダイレクト新ルートが整備されたが、前日までの大雨にスタート地点で躓き・登山口を大山小学校跡側に移動した…が大山城南小城へは国道と平行する一筋東側(銀の馬車道)の集落内から・
      新設された大山城登山口南の低丘陵先端ピークが南小城
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大山城登山口猪垣フェンス手前から圃場を抜け南正面の丘陵部に向かう。法楽寺合戦以降の築城で丘陵西先端部が銀の馬車道(生野街道)の通行を直近の足元に監視出来る位置にある。但馬山名氏は度々播磨への侵攻を繰返し正平6年(1351)山名時氏が大山越を播磨へ侵攻・赤松則祐と大河内城(寺前城・神河町寺前)の攻防では
           主郭北面切岸下の帯曲輪
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赤松則村の家臣本郷伊豆守が居城したが嘉吉の乱後:播磨侵攻の山名氏により落城。嘉吉の乱(1441年)後:山名持豊追討軍が赤松勢を大山城北山麓七宝寺を攻め撃破。また文安1年(1444)播磨奪回を企てる赤松満政と山名軍が真弓峠の合戦に及び:翌年には持豊が陣所としていた!?大山城北山麓の七宝寺を満政が攻撃している
         北帯曲輪から西面の副郭と主郭
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…が大山城南山麓も大山城へのダイレクト登城口・広い棚田が拡がる似た様な地形は赤松氏方が陣所としていたか?。その後の城史等不明だが赤松氏麾下の太尾兵庫頭輿次が城主の天正期(1573-92)信長命の”播磨平定”の羽柴秀吉軍により姫路市神南区(豊富町)の太尾城主:太尾兵庫頭輿次は・時期も同じく
         主郭と背後の大土塁の先に二重堀切がある
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大山城(太尾山城)も但馬侵攻で落城したものか?…大山城南小城は東西尾根筋に沿って凡そ幅30mー長さ120m程を城域に4-5段の曲輪を並べる梯郭式・主郭背後の大土塁から尾根続きを二重堀切で遮断している。杉地区自治会によるものか!?整備された登山道は大山城南小城から堀切を経る尾根筋は登り一辺倒だが・ 
          主郭から副郭・腰曲輪と続く    
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大山城展望所まで続いているよう…(未確認)。登り口から城趾に向かう尾根筋を離れ西へ少し下った先端部付近の平坦地形に埋れ浅くなっているが塹壕状凹部?を見る。真下に「銀の馬車道(生野街道)」を監視出来る位置にあるが大山城南小城は神河町杉字小城垣内にあるが新発見?の城か…城史も不詳
           腰曲輪は副郭・主郭北切岸下部へ延びる帯曲輪
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