至山城Ⅲ 山麓:その他伝承・史跡) 丹波市
丹波市(山南町)側からR175号線を南に向かい:旧佐治川(加古川上流域)に架かる”井原橋”を渡ると東方からの篠山川が合流する「出合い」からが(旧)加古川となる”三つの大河”に囲まれた容の合流点「イタリのハナ」がある。源流の岩屋城(三輪城)・
日吉神社・至山出合稲荷社から正面に至山石龕寺城・頭光嶽城・寺坂峠城…等”岩屋城砦群”から加古川に流れ出る”岩屋谷川”の河口:井原橋北詰から北へ約400mには足利尊氏が追手の探索を逃れ隠れた二重川伝説の足利橋がある。京を追われた足利尊氏が栗作郷の玉巻城の久下氏を頼り:二度:丹波路に逃れ一度は六波羅を攻めるため篠村八幡(亀岡市)に旗揚げ…したが
亀岡市:篠八幡宮の足利尊氏挙兵の地碑
建武3年(1336)新田義貞らに敗れた時(玉巻城築城の4代目:久下時重)の「二重川伝説」…二度目は観応2年(1351)弟直義と争った観応の撹乱の時…播磨・九州出兵に際し:仁木頼章・久下頼直?ら2000余騎の兵と共に嫡男:義詮を石龕寺に留めた際の
加東市滝野城(光明寺本堂裏手)の光明寺合戦本陣跡
「手々打栗」伝説を残す。丹波国(丹波市山南町)と播磨国(多可町中区・西脇市)の国境尾根を小野尻峠から石金山~更に延びる低丘陵尾根の東端がイタリ山(イタリヶ端)に至り山麓をR175号が回り込み(現:西脇市)黒田庄町へ抜けるところ:ミニ道の駅「山南仁王駅」のある至山山麓は旧佐治川(加古川上流!)の井原橋を渡る。
東方からの篠山川が合流し此処より発し加古川となる「出合」には「太平記巻第33:(延文22年)の事として思出川(篠山川)哀話」の三ッ塚古跡伝承を残し、野々口隆正古歌碑跡?に公園高所にあった三ッ塚古跡が移され
イタリ山稲荷神社跡の石積跡(至山6合目付近)其の駐車場最奥部に道標完備の至山登山口があり:是より至山城Ⅳだが石金山への境界尾根上にも城砦(大谷城)等…ピークや田高坂付近:曲輪の多くは西脇市側の南尾根に展開するため至山山頂部のみ:尾根上…の城砦遺構の詳細や関連等は知らず…
日吉神社・至山出合稲荷社から正面に至山石龕寺城・頭光嶽城・寺坂峠城…等”岩屋城砦群”から加古川に流れ出る”岩屋谷川”の河口:井原橋北詰から北へ約400mには足利尊氏が追手の探索を逃れ隠れた二重川伝説の足利橋がある。京を追われた足利尊氏が栗作郷の玉巻城の久下氏を頼り:二度:丹波路に逃れ一度は六波羅を攻めるため篠村八幡(亀岡市)に旗揚げ…したが
亀岡市:篠八幡宮の足利尊氏挙兵の地碑
建武3年(1336)新田義貞らに敗れた時(玉巻城築城の4代目:久下時重)の「二重川伝説」…二度目は観応2年(1351)弟直義と争った観応の撹乱の時…播磨・九州出兵に際し:仁木頼章・久下頼直?ら2000余騎の兵と共に嫡男:義詮を石龕寺に留めた際の
加東市滝野城(光明寺本堂裏手)の光明寺合戦本陣跡
「手々打栗」伝説を残す。丹波国(丹波市山南町)と播磨国(多可町中区・西脇市)の国境尾根を小野尻峠から石金山~更に延びる低丘陵尾根の東端がイタリ山(イタリヶ端)に至り山麓をR175号が回り込み(現:西脇市)黒田庄町へ抜けるところ:ミニ道の駅「山南仁王駅」のある至山山麓は旧佐治川(加古川上流!)の井原橋を渡る。
東方からの篠山川が合流し此処より発し加古川となる「出合」には「太平記巻第33:(延文22年)の事として思出川(篠山川)哀話」の三ッ塚古跡伝承を残し、野々口隆正古歌碑跡?に公園高所にあった三ッ塚古跡が移され
イタリ山稲荷神社跡の石積跡(至山6合目付近)其の駐車場最奥部に道標完備の至山登山口があり:是より至山城Ⅳだが石金山への境界尾根上にも城砦(大谷城)等…ピークや田高坂付近:曲輪の多くは西脇市側の南尾根に展開するため至山山頂部のみ:尾根上…の城砦遺構の詳細や関連等は知らず…
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