至山城 Ⅰ:野々口隆正の古歌碑 丹波市

篠山川と佐治川が合流してR175号沿いに此処から加古川となり流れ出る三つの大川の”出合い”に架かる井原橋を渡る南詰めの東側に道の駅「さんなん仁王駅」がある。道の駅とR175号を挟む西側:イタリ山の北山麓・旧佐治川堤一帯が
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井原橋さくら公園で”仁王駅”名称の”仁王”は国重文の石龕寺:阿吽の仁王像は実物大。南向と北向の左右に立ち歓送迎している様。イタリ山北斜面・山麓一帯は長期間(2年?ばかり)公園整備!?工事中で閉鎖されたままだったので
        道の駅”さんなん仁王駅と”さくら公園”入口の石龕寺の仁王像
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20年振り?に至山山頂まで登ってみた。山頂部は至山古城だが、山麓の古跡についても報告兼ねて…野々口隆正の古歌碑(金石文)だが:何処かへ移設されたものか見当たらない…代わって南北朝期の悲話伝承を伝える三っ塚古跡が移設されている。
        井原橋さくら公園内に野々口隆正の歌碑は在った…が
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先ずは野々口隆正は江戸時代末期の国学者で歌人でもあった(寛政4:1792ー明治4:1871)。尊皇派の小野藩主:一柳末延は隆正の国学を高く評価し天保7年(1836)藩校:帰正館を建てて迎え、名声は丹波・但馬にも及び其の門人でもあった:柏原藩織田家谷川陣屋:野坂代官所の依藤平八郎(方敬)の招聘により嘉永3年(1850)
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依藤方敬宅に客人として訪れ茶会を催したとき、美しく小高い山の名が至山と聞いて『いたり山 道のいたりは日の本の もとつ教えのほかにあらめや』と詠んで至山と日本精神の繋がりを論じて・やがて来る新生日本の姿を讃えたと云う。
         野坂代官所跡
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この歌の埋もれるのを惜しみ方敬や当時の庄屋広瀬氏・藤井医師が発起人となり建立されたのが「いたり山 みちの至りは…」の歌碑なのだが…。”小川村誌・「由緒を尋ねて」昭和31年丹波新聞社発行”参照… 依藤平八郎(方敬)は天保10年(1839)野坂寺子屋(松寿軒)を開き・藩政下の小川地区には岩屋の酒井某個人宅・井原には
        日吉神社東隣の公民館:小川小学校前身・推行舎があった!
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清雲寺・霊雲寺…等:寺や個人宅を開放した寺子屋があった。小川村史年表によると明治6年(1873)霊雲寺清雲寺(廃寺)を仮教場に創立された崇廣館(柏原藩校)支校の推行舎が、小川小学校(寺子屋が学制発布により設置)の前身:明治6ー7年頃の「推行舎銘入り屋根瓦」が遺る!?
     至山(中央)と岩尾城和田斉頼が大栄2年:石樋用水路で導通させた井原梶耕地
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