至山城 Ⅱ:三ッ塚古跡 丹波市

丹波市氷上町・柏原町・山南町へと氷上回廊を西脇市方面へ向かうR175号線は旧佐治川・篠山川が合流し加古川に流れ出る”出合い”に架かる井原橋を渡った南詰めの至山東山麓に”ミニ道の駅「山南仁王駅」”と”井原橋さくら公園(至山公園)”があり公園整備!以前:山麓の公園内一番高い処に石積窟の三ッ塚御霊社古跡があり由来碑と
       公園上部の古跡から移設された三ッ塚御霊碑
IMG_3081.JPG
供養塔が建てられていた。「由緒を尋ねて…昭和30年:丹波新聞社版」に”御霊という古墳があり…三っ塚と呼ばれ…”とあり墳墓だったのか?…氷上郡埋蔵文化財分布調査報告書(1998年3月)に至山古墳南支群・南無阿弥陀仏石塔が建つR175号市境界の上部に井原至山古墳があり、須恵器・土師器・刀剣・馬具等が出土している。
      旧公園の御霊塚付近から旧佐治川と右手奥から篠山川が”出会う”
IMG_514911.jpg
太平記巻第33」に延文22年(1357)井原・思出川(篠山川)の事として載せられているお話で:南北朝期:京都の戦乱に:公卿で御所に勤める仕えていた北面武士(近衛として白川法皇が創設し上皇の身辺を警護)の兵部省輔道成は多くの従者を召抱え・富み栄え安逸の日々を過ごしていたが、京へ攻め上った足利勢によって
       佐治川(加古川上流部)から井原橋・篠山川(思出川)の”出会い”
139756337062221414228_IMG_3779.jpg
邸や財産を失い・従者は離散し京に身を置く所もなくなった省輔は2人の子と夫人を連れ何処へとも当てのない旅に就き、親子4人は道に落ちている栗や柿などを拾っては餓えを凌ぐが・餓えと疲労で”丹波井原の里”へ来た時:妻子の哀れな姿を見かねた省輔は付近の民家に一食を乞いに走り回っていた…
   さくら公園:左端”東屋?”の西に旧:野々口隆正の歌碑:現:三ッ塚御霊塚の碑が立つ!
139756363707178831228_IMG_3783.jpg
…物乞いに出て余りに帰りが遅い夫を心配していた夫人だが、堤の上から声をかけた百姓が「京のお人と思われる男の人が武家屋敷で物乞いをしたが強盗の手下と間違えられ拷問され…もう死んだかもしれない」…と聞き:母子三人は抱き合って堤に泣き崩れた。行き先知れずの旅ではあるが夫が他界とあっては今後どうして
    さんなん仁王駅から井原橋(旧佐治川)が合流する思出川(篠山川)出会いの淵
139756378245035881228_IMG_3785.jpg
生きられよう・冥土の旅に夫一人を立たせては申し訳ない…と思出川の深い淵に身を躍らせた。一方責め折檻を受けたが疑いは晴れたが・妻子の餓えたる悲しさを思えばこのまま引返しもならず、物乞いを続け菓子等を集めて川端へ戻ってみると草履や杖はあるが人気はない。付近を探し回るうち・夜目にもそれとわかる
     正面:至山と旧佐治川・左先端(さくら公園)で篠山川に合流し加古川となる
IMG_1496-thumbnail2.jpg
手に手をとった母子三人の無残な最期。苦難を重ねて辿り着いた異境に妻子を失ない:公卿として華やかだった京の豪奢な生活・匂うばかり美しかった妻の思い出・苦しい流浪の旅の果て…おそ月が井原の山を照らす頃、兵部省輔道成は妻子3人の身体を抱き不気味な深さをたたえた淵に身を投じた。
      小川小学校校歌♪前に聳ゆる 至り山…♪:校庭からの至山(平成12年・2000)
IMG_78491.jpg
4人の死体は村人の手により至山の麓に懇ろに葬られ御霊と呼ばれ三ッ塚とも呼ばれるささやかな祠が建ち…年々悲しい最後を遂げた公卿家族の霊を慰められ「三ッ塚」をめぐる哀れな悲話を伝える:花街道の画像を献花のつもりで添える
山南町誌「思出川哀話」(昭和63年版)・「由緒を尋ねて」(丹波新聞社版昭和31年)を参照

この記事へのコメント