貝野城Ⅲ 多可郡

貝野城Ⅱ 多可郡から続く…神社跡・棚田跡らしい緩斜面を詰め上がり貝野城北面から妙見登山道3合目に出てきた事もある。大正年間の土砂崩れで廃村となり一帯は荒田から安楽田と改名されたが…隠し連絡登城ルートも新興赤松家の別所重棟ら
        西郭-南郭北面の石垣と西斜面(手前)の畝状竪堀群
IMG_0039.JPG
連合軍の夜襲に遭い壮絶な最期を迎える赤松在田(有田)氏との荒田城合戦(天正3年7月)に別所方が攻め込んだのも畝状竪堀群が意識して集中的に施設されている西尾根曲輪群の南側/北側谷筋からか?、城域北の主郭と南郭間は東面に竪堀・
         林道登山口からizaスタート:のっけから!クマ出没注意…
IMG_0020.JPG
曲輪は殆ど見ない…猛烈な藪が侵入を阻む…見所は西尾根基部の腰曲輪と北の主郭・南郭を繋ぐ中央郭(西腰曲輪)付近の虎口?…以前に比べ:藪化が著しい。「応仁の乱後の播磨守護は赤松氏から山名氏に代わり、但馬守護代で竹田城の太田垣氏が
          北郭(主郭)手前:登山道の側から続く畝状竪堀群
IMG_0026.JPG
生野銀山支配していたが主君?山名祐豊が銀山を横領…山名四天王の勢力争い・弱体化した山名氏に離反した太田垣氏が銀山領有権を奪還する…等」からも太田垣氏との交流(関係)があったものか…?。赤松政則が”生野・真弓峠の戦い”に
      藪っぽい主郭から鍛冶屋方面:中央前方に浅香山・右端に森本城
IMG_0041.JPG
大敗を喫し政則を追放し赤松家は分裂…在田(有田)氏は長年の宿敵であった山名側に付く。生野鉱山から妙見山にかけて鉱脈が延びており、妙見山系の鉱山開発と、京・阪神間への鉱石輸送ルートの便宜!?…等共存共栄の関係にあったものか?。
     南郭側から:右に虎口受・右上に主郭・正面左に西北尾根基部の腰曲輪
IMG_0042.JPG
在田氏が河内城(加西市)から本拠を野間城(八千代区)に移した頃か?、西播磨・東播磨支配の播磨守護代:浦上村宗が…更には東播磨を支配下に…との赤松家新興勢力の別所氏が…赤松旧臣勢力に代わり…在田氏本拠に迫り野間川・仕出原川・大和川に
       南郭・西北郭(腰曲輪)から主郭がわ腰曲輪に入る上り土塁虎口
IMG_0043.JPG
挟まれた丘陵上の片瀬砦花の宮砦(牛居城の中村氏が在田氏を頼り此処に移った時期でもある”永禄年中(1558-70)”多可郡内に起きた合戦?だろうか?:山名氏は在田氏へ援軍を送った際の…山名氏拠点は荒田(安楽田!?)にあったとも云う。
          西北曲輪群:堀切北斜面側
IMG_0034.JPG
石垣・石積が多用されている播磨赤松氏の貝野城だが、播磨では珍しい畝状竪堀群は但馬山名氏系(一説に山内氏の居城!?:山名四天王の一・太田垣氏が築城代官?)による防禦施設の改修が推測される。
       西北曲輪群:堀切南斜面側は落ち口に閉塞石垣(正面画像は貝野城Ⅱ)
IMG_0036.JPG
天正3年:荒田城合戦(別所方の夜襲)に貝野城・段の城の城主:在田(有田)朝勝は高坂越えで逃れる途中:奥荒田で力尽き自刃した主従の供養塔が若宮神社にあり、御神体として祀られるのが有田源八郎朝勝と記された人形と小太刀。
         西北曲輪群:南・北堀切沿い曲輪端の土留め石列
IMG_0033.JPG
別所氏勢力が及ぶ北播磨・東播磨/別所氏と共闘する丹波(荻野直正)領へは入れない?…高坂越えで千ヶ峰西山麓の越知川沿い県道367号(岩屋生野線)を但馬側の生野町銀谷口へ逃れる途中だったか!
          有田朝勝主従の供養塔(奥荒田の若宮神社)
IMG_48591111.jpg

この記事へのコメント