堀井城(掘入構居) 小野市

河合地区の三つの平城「河合城とその支城:小堀城堀井城」は其々に水路で繋がっていたといわれ、小堀城へは東北方約500m程のところに位置して僅かに土塁を残し、本拠:河合城へは東南方約600m程のところにあるが、遺構はほぼ壊滅している。堀井城だけは外周する水濠が途切れたり・
         堀井城”唯一?の土橋虎口”:木戸門
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大きく崩れる事もなく・見事なほどに中世方形館の姿を留めていた。南側に一ヶ所だけ土橋となっていたものか大きな土管を通した橋の向かう城内側に壊れかけた門が残っているが只:城内中央に向かい踏み込めないほどの藪だが、濠沿いには進めそうだ…其の雑木や竹薮の奥から城址の地主さん?が
            土橋虎口東側堀(現:)
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出てこられて驚いた…先には畑地があるらしい(平成19年頃)。周囲を水濠で囲まれた堀井城には三方にあったという橋(虎口)は現:此処が唯一の虎口。明治期までは宅地して使用され「斯波屋敷」と呼ばれ旧貴族院議員:斯波与七郎「JR加古川線の前身:旧播州鉄道建設計画の発起人」の屋敷があった所で、
            土橋虎口西側堀(現:)
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明治37年8月斯波氏邸は宅地として土塁や堀は改修され家政整理され以降…梅林にしたとも聞く。更に郭内は昭和40年(1965)頃:梅林にするためブルドーザーが入り、畝を造ったといい堀も土塁等も改変著しい様で内部の城遺構に期待は出来ない。其れでなくても・猛烈な竹藪に覆い尽くされています。
        土橋虎口東側堀(平成19年):底部石積みは宅地改修時のもの!?
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梅林も繁茂する竹に圧されて、いつしか枯れてスッカリ占拠された竹の伐採もされず荒れ放題…お蔭で!!マムシも多く…!! (平成21年2月)堀井城の内陣が綺麗に伐採されている。個人所有地かと思っていたが市所有地となったらしく
         堀・土塁が四方を囲む主郭内部はグラウンドゴルフ場
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整備・事前調査の為…周りを濠と土塁で囲まれた遺構が完全な形で残る方形居館が観察される。内部遺構は不明で遺物出土はなかったが…堀底はU字型であること…等は確認されている。堀井城は承久2年(1220)赤松(円心)則村から三代前の
      遠くの丘陵部(青野ヶ原)にも河合城支城の金鑵城がある
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家範の兄弟である赤松(間島)景能「宇野範景の長男で兄弟には河合城創築の上月(赤松)景盛 がいる」が築城したと伝える。景能から四代廣景?の時:赤松満祐が将軍:足利義教「リンク先の最終行:嘉吉史蹟・足利義教の首塚を参照願います)の首を持ち
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立寄ったことで知られる河合城ともに…嘉吉の乱(嘉吉元年1441)6に一時没落するが、享禄3年(1530)堀井兵部長満により再興されたと云う。播磨鑑に矢野彦三郎義純の名がみえるが史料の信頼性は薄い…。現状:堀井城は”ふれあい公園”…
       2009年:南濠の土橋(旧:斯波氏邸正面玄関口?)
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として土塁囲いの内側はグラウンドゴルフ場・外周の濠が復元?で遺るが…三方にあったという土橋虎口の位置等がカラー舗装された堀底周回遊歩道や外周土塁上からも判る様な表示だけでも・遺構検出されているのなら残して欲しかった。
          平成21年(2009)発掘調査後の南堀土塁と主郭内土塁 
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南駐車場側の正面に堀切を左右に分ける幅広い土橋虎口を木戸門に入る開放された入口が堀井城唯一の虎口部。主郭規模は東西80m・南北100m、堀は幅8-10m・深さ1.5m、土塁は幅6m-14m・高さ1m-4mあるが築城時の堀幅は狭く土塁はも少し高かったと推測されている(小野市史・現地案内説明板を参照)
        2009年の発掘調査後の東堀と主郭土塁線
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