岩崎城 篠山市
宇土観音から槙ヶ峰山塊の北側山麓を1km程で岩崎の集落に入りバス停・岩崎公民館から南山手に向う集落内に入っていくと槙ヶ峰山塊の東峰・谷山西の峰から北方に延びた枝尾根末端から西へ突き出す様に流れ出る短く先端が丸い低丘陵部「岩崎城」が春日神社背後・民家に迫る最奥部に見える。
岩崎城(正面の小丘陵)268m:フエンス切れ目に城趾案内板・奥に春日神社道すがら:丹波では見掛けなくなったが篠山市内の其処此処の圃場に近い民家や・農耕倉庫や資材置場になっているものもあるが…灰屋(はんや)を見る。草木などを燃やして焼土肥料を作る土壁で作られた小屋「灰屋丹波並木道中央公園」内にも展示(稼働されたことも…)されているが、最近!(2024年)篠山市岡野地区に
地元住民・学生らにより「灰屋」が修復・再建され灰屋で作られる焼灰を肥料に無農薬野菜の栽培等に生かす”再建プロジェクト”が始動したとの記事を地元誌で見た。岩崎地区坊の奥(ぼうのく)の篠山盆地西方を望む丘陵の西端麓に春日神社があり神社裏手へ回り込むように斜面に取付く岩崎城:最高所迄は比高僅か4-50m程の
灰屋(はんや)城域西端付近3m程の段差の曲輪は全体がブッシュの中で藪を分け上部に出ても削平はあまく僅かな段差の平坦地(曲輪)が4~5段続いて40m程の距離で最高所の主郭部へ延びているだけ。小さな山頂に低い3-4段に段差を持った削平地が柳本左近兵衛が拠った岩崎城。山上部の「宮山公園」標識板の文字も、
岩崎城主郭部の「宮山公園」標識展望台を兼ねた休憩所も20数年前とは・すっかり状況も変わり…年期を経た感?があり、広い平坦地形の曲輪も下草藪に埋れ・西方(春日神社側)からのトレース(踏跡)だけが登頂ルートか?…、それにしても山城遺構の現状に比べ:極最近(令和2年12月)谷山城ともに…立派!な岩崎城案内説明板が立てられている。
岩崎城(正面の小丘陵)268mと灰屋(はんや:正面中央の小屋)東へ降る尾根もさほど急でもなく途中に低土塁付きで竪堀を曲輪端に備えた(今回藪を分けての再訪では未確認)遺構を見て植林の鞍部に降りるが此処に堀切がある訳でもなく東の尾根伝いからは無防備で自然地形に頼るだけだが比高は低く
城域西端の曲輪切岸:西下方に竪堀を見る
何処からでも侵入出来そうで大手口や虎口は不詳。東方直近に八上城があるが間に谷山城・小丸山砦があって見通しは利かないが北面左方に吹城・正面寄りに網掛城が望まれる位置にはある。(1573-92)天正期まで残っていた城にしては
西先端の竪堀は更に深く長く落込む…防御性に欠け・臨戦的な使用目的の縄張りで”詰の城”とするには弱過ぎる!?。丹波攻めの始まった天正3年(1575)頃からの緊迫した状況下でこの城が果たした役割は何だったのだろう?。波多野氏勢力下以前の領主柳原氏の領地支配の為の館城だったのでしょう?。周辺の民家に酒井姓を見かけるが真南条の尾根越に
城域西南端小曲輪を挟み左右から落ちる竪堀北方にも酒井党一族の勢力があったのか?柳本氏については未調査で勝手な推測だが天正6年(1578)以降八上城周辺の波多野城砦群が明智軍に攻め落とされていくなか主城の谷山城の平林氏らと最後の城主:柳本左近兵衛は防御性を欠いた岩崎城を捨て八上城に籠もって最後を迎えたようです。
岩崎城(正面の小丘陵)268m:フエンス切れ目に城趾案内板・奥に春日神社道すがら:丹波では見掛けなくなったが篠山市内の其処此処の圃場に近い民家や・農耕倉庫や資材置場になっているものもあるが…灰屋(はんや)を見る。草木などを燃やして焼土肥料を作る土壁で作られた小屋「灰屋丹波並木道中央公園」内にも展示(稼働されたことも…)されているが、最近!(2024年)篠山市岡野地区に
地元住民・学生らにより「灰屋」が修復・再建され灰屋で作られる焼灰を肥料に無農薬野菜の栽培等に生かす”再建プロジェクト”が始動したとの記事を地元誌で見た。岩崎地区坊の奥(ぼうのく)の篠山盆地西方を望む丘陵の西端麓に春日神社があり神社裏手へ回り込むように斜面に取付く岩崎城:最高所迄は比高僅か4-50m程の
灰屋(はんや)城域西端付近3m程の段差の曲輪は全体がブッシュの中で藪を分け上部に出ても削平はあまく僅かな段差の平坦地(曲輪)が4~5段続いて40m程の距離で最高所の主郭部へ延びているだけ。小さな山頂に低い3-4段に段差を持った削平地が柳本左近兵衛が拠った岩崎城。山上部の「宮山公園」標識板の文字も、
岩崎城主郭部の「宮山公園」標識展望台を兼ねた休憩所も20数年前とは・すっかり状況も変わり…年期を経た感?があり、広い平坦地形の曲輪も下草藪に埋れ・西方(春日神社側)からのトレース(踏跡)だけが登頂ルートか?…、それにしても山城遺構の現状に比べ:極最近(令和2年12月)谷山城ともに…立派!な岩崎城案内説明板が立てられている。
岩崎城(正面の小丘陵)268mと灰屋(はんや:正面中央の小屋)東へ降る尾根もさほど急でもなく途中に低土塁付きで竪堀を曲輪端に備えた(今回藪を分けての再訪では未確認)遺構を見て植林の鞍部に降りるが此処に堀切がある訳でもなく東の尾根伝いからは無防備で自然地形に頼るだけだが比高は低く
城域西端の曲輪切岸:西下方に竪堀を見る
何処からでも侵入出来そうで大手口や虎口は不詳。東方直近に八上城があるが間に谷山城・小丸山砦があって見通しは利かないが北面左方に吹城・正面寄りに網掛城が望まれる位置にはある。(1573-92)天正期まで残っていた城にしては
西先端の竪堀は更に深く長く落込む…防御性に欠け・臨戦的な使用目的の縄張りで”詰の城”とするには弱過ぎる!?。丹波攻めの始まった天正3年(1575)頃からの緊迫した状況下でこの城が果たした役割は何だったのだろう?。波多野氏勢力下以前の領主柳原氏の領地支配の為の館城だったのでしょう?。周辺の民家に酒井姓を見かけるが真南条の尾根越に
城域西南端小曲輪を挟み左右から落ちる竪堀北方にも酒井党一族の勢力があったのか?柳本氏については未調査で勝手な推測だが天正6年(1578)以降八上城周辺の波多野城砦群が明智軍に攻め落とされていくなか主城の谷山城の平林氏らと最後の城主:柳本左近兵衛は防御性を欠いた岩崎城を捨て八上城に籠もって最後を迎えたようです。
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