松平又四郎(伝説) 篠山市
篠山藩初代:松井松平家・藤井松平家二代に続き四代目(形原松平家の初代篠山藩主)松平康信は下総国佐倉藩の初代藩主:松平家信の二男で5代続き亀山藩へ移封で青山家に代わり明治維新まで続く…。松平康信の甥で5男信昌の子に松平又四郎という青年がいた…が名を聞いても知る人は少ないかも…?しれないが…
篠山城の東外濠となる黒岡川に架かる割場橋を渡ったところに”乙姫龍王神”と並び鎮座する頼尊(よりたか)又四郎稲荷神社(篠山市東新町)や、上宿公民館西端の小祠:地蔵堂の血寄地蔵(篠山市上宿)・負け嫌い稲荷や”本経寺にあった力士の狐象”(現在:負け嫌稲荷社」の主神?平左衛門稲荷前に鎮座し寧ろ主役を張っている)…
…のが今回の主人公:藤井松平家の菩提寺:本経寺には次代の形原松平家の供養碑もある様?(未確認)。本経寺の奥の院が”負け嫌い稲荷社”なので、狐象は松平又四郎(賴尊又四郎稲荷)だと勝手に思っている。
元々 力士の狐象は本経寺(河原町)にあった
宮田地区の光照寺に松平阿房守信孝の供養碑がある。形原松平家は青山家と交代となり亀山(亀岡市)藩に移り:菩提寺「光忠寺」も移築され・其の墓地入口の一隅に:血寄地蔵分身の小さな北向き地蔵尊が祀られている…が愛知岡崎市の松平信孝と篠山藩の繋がりは不詳…。頼尊又四郎稲荷・血寄地蔵・負け嫌い稲荷伝承については
各リンク付け内容!?は現地丹波篠山五十三次記事を参照…。身を寄せている藩主松平康信の権勢を笠に着て・奔放無頼の生活を送るようになり領民や家中一同からも大変恐れ・嫌われ、康信は直接間接に又四郎に意見をしても改まらず、
篠山城:大書院
波々伯部神社へ代参を命じ・ついに万治2年(1659)10月:不憫ながら刺客に命じて又四郎を暗殺した。城下の人々は若くして惨死された又四郎の剛勇闊達さと溢れるような生気を称える声もあり、篠山城鬼門の位置に稲荷神として祀り・除災と
血寄地蔵(八上・上宿公民館)
繁栄を祈った。負け嫌い稲荷伝承は:江戸両国の回向院広場での上覧大相撲では篠山藩の力士の大活躍に幕府老中:篠山藩主青山下野守忠裕を大喜びさせた王地山平左衛門ら稲荷社権化の力士一行で唯一人間?力士として頼尊又四郎が登場する。
小田中清五郎稲荷神社:”まけきらい稲荷”力士絵馬
篠山城の東外濠となる黒岡川に架かる割場橋を渡ったところに”乙姫龍王神”と並び鎮座する頼尊(よりたか)又四郎稲荷神社(篠山市東新町)や、上宿公民館西端の小祠:地蔵堂の血寄地蔵(篠山市上宿)・負け嫌い稲荷や”本経寺にあった力士の狐象”(現在:負け嫌稲荷社」の主神?平左衛門稲荷前に鎮座し寧ろ主役を張っている)…
…のが今回の主人公:藤井松平家の菩提寺:本経寺には次代の形原松平家の供養碑もある様?(未確認)。本経寺の奥の院が”負け嫌い稲荷社”なので、狐象は松平又四郎(賴尊又四郎稲荷)だと勝手に思っている。
元々 力士の狐象は本経寺(河原町)にあった
宮田地区の光照寺に松平阿房守信孝の供養碑がある。形原松平家は青山家と交代となり亀山(亀岡市)藩に移り:菩提寺「光忠寺」も移築され・其の墓地入口の一隅に:血寄地蔵分身の小さな北向き地蔵尊が祀られている…が愛知岡崎市の松平信孝と篠山藩の繋がりは不詳…。頼尊又四郎稲荷・血寄地蔵・負け嫌い稲荷伝承については
各リンク付け内容!?は現地丹波篠山五十三次記事を参照…。身を寄せている藩主松平康信の権勢を笠に着て・奔放無頼の生活を送るようになり領民や家中一同からも大変恐れ・嫌われ、康信は直接間接に又四郎に意見をしても改まらず、
篠山城:大書院
波々伯部神社へ代参を命じ・ついに万治2年(1659)10月:不憫ながら刺客に命じて又四郎を暗殺した。城下の人々は若くして惨死された又四郎の剛勇闊達さと溢れるような生気を称える声もあり、篠山城鬼門の位置に稲荷神として祀り・除災と
血寄地蔵(八上・上宿公民館)
繁栄を祈った。負け嫌い稲荷伝承は:江戸両国の回向院広場での上覧大相撲では篠山藩の力士の大活躍に幕府老中:篠山藩主青山下野守忠裕を大喜びさせた王地山平左衛門ら稲荷社権化の力士一行で唯一人間?力士として頼尊又四郎が登場する。
小田中清五郎稲荷神社:”まけきらい稲荷”力士絵馬
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