神池寺と「澄まずの池」 丹波市
妙高山:神池寺は「丹波比叡」とも呼ばれる天台宗中本山:養老2年(718)法道仙人創建の古刹で紅葉の隠れスポット。神池寺の山号:妙高山(2等三角点565m)への登山は日ヶ奥渓谷から奇岩・怪石の渓谷美を愛でながら神池寺に至るコースや南方には丹波の女流詩人深尾須磨子の誕生地:三井庄からの旧参道もあるが、
神池寺山門歩いて登ってくる人は殆どなく京都:三和町へ抜ける(県道59号線)鴨庄から約5km程の短い県道541号が通じ、山懐深く・丹波随一の修験の霊地:天台宗中本山の道場として栄えた神池寺に至る専用林道車道がある。県道541号は例年8月初旬〜下旬に行われる" 案山子まつり”会場となる地点から始まり
日ヶ奥渓谷神池寺への案内板を見て進む集落の外れからは車幅も狭く・急斜面にカーブが続く。なによりも山深い名刹へ。山上境内にはモリアオガエルの産卵池としてもよく知られる伝説の「すまずの池」が汚されることもなく、サザンカの花咲く藪を抜け・鹿の足跡が周辺に残る…今のままの方がずっと良いと思う。
案山子まつり会場「休憩中の二人・すぐ戻ります」…と靴だけを残して…「澄まずの池」は:どんなに長いあいだ日照りが続いても枯渇しない事から神の池の寺との寺名が起こり。聖武天皇勅願所で天平年間(729~749)行基が仁寿年間(851~854)には慈覚大師(比叡山興隆の祖)が巡錫(来山)したという。南北朝内乱期:還俗した大塔宮護良親王が挙兵した元弘3年(1333)4月比叡山や神池寺の僧兵が参戦し六波羅探題を攻めるが、敗れて丹波へ退き神池寺に籠もった。
案山子まつり会場には”すまずの池”伝説題材のモチーフが登場護良親王が奉納した鎧が伝えられていたが…明治維新の頃:梶井宮門跡(大原三千院の名称)に貸し出されていたが:護良親王を奉る大塔宮鎌倉宮が創建され鎧は明治2年(1869)御神体となっている(氷上郡志)。古刹:名勝地の神池寺には種々由緒伝承・伝説が多く、過去「肩切り地蔵」伝説は紹介している。
県道541(神池寺の専用道!!:九輪草自生地発見付近からは寺域:参道また天正の”丹波攻め”黒井城攻略の兵火に罹る等の災禍もあった。府県境の近在の山城に落城や客将の城?や明智方の陣城が点在し篠山市・丹波市春日・市島町界の妙高山一帯は多紀連山県立自然公園に指定され:原生林に近い森、多くの稀少植物類や鳥類が生息しているが、本堂横に広がる切り開きに
神池寺境内の肩切り地蔵尊「兵庫県立自然公園」の朽ちかけた標柱。本堂脇の行者堂背後には春日神社跡石垣・石積み曲輪が点在。妙見山山頂手前鞍部付近尾根上の妙高山東城(仮称)は妙高山頂から神池寺・三井庄へ下る分岐鞍部(道標石仏がある)から東へ延びる丘陵続きに位置する中世城郭。山頂の妙見堂跡付近には妙見砦(城郭類似遺構)があり、
妙高山砦(城郭類似遺構):山頂の妙高山権現神社礎檀・灯籠が残る)延々と野上野の桂谷寺に至る西尾根上に曲輪が展開。桂谷寺裏城館と野上野城(多利城)・野上野東砦・野上野西砦…と共に、黒井城監視の出曲輪として明智勢傘下に降った丹波側:某部将が拠った付城の一か?。妙見山北参道の日ヶ奥渓谷側入口付近からの山上には天ヶ嶽城・北麓付近には西明寺南の砦(仮称)もある。
妙高山東城(仮称):竪堀・土塁を組み合わせた様な複合遺構がある!「すまずの池」の伝承は、神池寺が隆盛を誇っていた時代のこと…水の綺麗な池の傍には鐘楼があって小僧さんが朝夕交代で鐘を搗いていた…が何時の頃からか!…「和尚さん鐘を搗きにいった小僧が今日も帰ってきません」…「えっ・帰ってこないと!!変だなァ:此れで三人目じゃ、
神池寺:庫裏前の庭園池
寺が嫌になり山を降りたのかなあ」…不思議なことが起こるので和尚は一人の坊さんに鐘を搗きに行く小僧の見張りをさせた。何日目かの夕方:いやな黒い雲が空一杯に拡がり・あたりは真っ暗になってきた。小僧はいつもの様に鐘を搗き始めると、鐘楼の側の池の水が波立ち始め
辺りの草木がざわめきだし、池の水が渦巻き始めたかと思うと大蛇が頭を持ち上げ大きな口で小僧をひと呑みにして池に潜り込む。アッという間の出来事に見張りの坊さんはどうすることも出来ず和尚に報告し色々相談します。その時一人の坊さんが「小僧の人形を作り人形に毒を入れたらどうでしょう?」…
”それは良い案じゃ”と早速毒を仕込んだ人形を鐘つき堂に運び込む。それから何日か後:前と同様に空が真っ黒になりだす。「今だ・そら人形を運び出せ」…と小僧が鐘を搗いているように人形を置きます。そして鐘搗き棒に縄をつけ:少し離れた木の影から引っ張り”ゴォーン、ゴォーン”と鳴らし始めます。
すると前のように池の水が渦巻き始め、がばっと大蛇が頭を持ち上げて人形をひと呑みにして池に潜り込んでいきました。「やった上手くいったぞ」又池の水が波打ち大蛇が浮いたり沈んだり、のた打ち回るが、そのうち弱ったのか池も静かになった。
このことがあってから小僧達は大蛇に呑まれることもなくなり安心して鐘を搗くようになりました。しかし何時までたっても赤茶色に濁った儘:もとの澄んだ綺麗な水には戻らず・村の人達はこの池を「すまずの池」と呼ぶようになりました…(丹波のむかし話 丹波の森協会 参照)
神池寺山門歩いて登ってくる人は殆どなく京都:三和町へ抜ける(県道59号線)鴨庄から約5km程の短い県道541号が通じ、山懐深く・丹波随一の修験の霊地:天台宗中本山の道場として栄えた神池寺に至る専用林道車道がある。県道541号は例年8月初旬〜下旬に行われる" 案山子まつり”会場となる地点から始まり
日ヶ奥渓谷神池寺への案内板を見て進む集落の外れからは車幅も狭く・急斜面にカーブが続く。なによりも山深い名刹へ。山上境内にはモリアオガエルの産卵池としてもよく知られる伝説の「すまずの池」が汚されることもなく、サザンカの花咲く藪を抜け・鹿の足跡が周辺に残る…今のままの方がずっと良いと思う。
案山子まつり会場「休憩中の二人・すぐ戻ります」…と靴だけを残して…「澄まずの池」は:どんなに長いあいだ日照りが続いても枯渇しない事から神の池の寺との寺名が起こり。聖武天皇勅願所で天平年間(729~749)行基が仁寿年間(851~854)には慈覚大師(比叡山興隆の祖)が巡錫(来山)したという。南北朝内乱期:還俗した大塔宮護良親王が挙兵した元弘3年(1333)4月比叡山や神池寺の僧兵が参戦し六波羅探題を攻めるが、敗れて丹波へ退き神池寺に籠もった。
案山子まつり会場には”すまずの池”伝説題材のモチーフが登場護良親王が奉納した鎧が伝えられていたが…明治維新の頃:梶井宮門跡(大原三千院の名称)に貸し出されていたが:護良親王を奉る大塔宮鎌倉宮が創建され鎧は明治2年(1869)御神体となっている(氷上郡志)。古刹:名勝地の神池寺には種々由緒伝承・伝説が多く、過去「肩切り地蔵」伝説は紹介している。
県道541(神池寺の専用道!!:九輪草自生地発見付近からは寺域:参道また天正の”丹波攻め”黒井城攻略の兵火に罹る等の災禍もあった。府県境の近在の山城に落城や客将の城?や明智方の陣城が点在し篠山市・丹波市春日・市島町界の妙高山一帯は多紀連山県立自然公園に指定され:原生林に近い森、多くの稀少植物類や鳥類が生息しているが、本堂横に広がる切り開きに
神池寺境内の肩切り地蔵尊「兵庫県立自然公園」の朽ちかけた標柱。本堂脇の行者堂背後には春日神社跡石垣・石積み曲輪が点在。妙見山山頂手前鞍部付近尾根上の妙高山東城(仮称)は妙高山頂から神池寺・三井庄へ下る分岐鞍部(道標石仏がある)から東へ延びる丘陵続きに位置する中世城郭。山頂の妙見堂跡付近には妙見砦(城郭類似遺構)があり、
妙高山砦(城郭類似遺構):山頂の妙高山権現神社礎檀・灯籠が残る)延々と野上野の桂谷寺に至る西尾根上に曲輪が展開。桂谷寺裏城館と野上野城(多利城)・野上野東砦・野上野西砦…と共に、黒井城監視の出曲輪として明智勢傘下に降った丹波側:某部将が拠った付城の一か?。妙見山北参道の日ヶ奥渓谷側入口付近からの山上には天ヶ嶽城・北麓付近には西明寺南の砦(仮称)もある。
妙高山東城(仮称):竪堀・土塁を組み合わせた様な複合遺構がある!「すまずの池」の伝承は、神池寺が隆盛を誇っていた時代のこと…水の綺麗な池の傍には鐘楼があって小僧さんが朝夕交代で鐘を搗いていた…が何時の頃からか!…「和尚さん鐘を搗きにいった小僧が今日も帰ってきません」…「えっ・帰ってこないと!!変だなァ:此れで三人目じゃ、
神池寺:庫裏前の庭園池
寺が嫌になり山を降りたのかなあ」…不思議なことが起こるので和尚は一人の坊さんに鐘を搗きに行く小僧の見張りをさせた。何日目かの夕方:いやな黒い雲が空一杯に拡がり・あたりは真っ暗になってきた。小僧はいつもの様に鐘を搗き始めると、鐘楼の側の池の水が波立ち始め
辺りの草木がざわめきだし、池の水が渦巻き始めたかと思うと大蛇が頭を持ち上げ大きな口で小僧をひと呑みにして池に潜り込む。アッという間の出来事に見張りの坊さんはどうすることも出来ず和尚に報告し色々相談します。その時一人の坊さんが「小僧の人形を作り人形に毒を入れたらどうでしょう?」…
”それは良い案じゃ”と早速毒を仕込んだ人形を鐘つき堂に運び込む。それから何日か後:前と同様に空が真っ黒になりだす。「今だ・そら人形を運び出せ」…と小僧が鐘を搗いているように人形を置きます。そして鐘搗き棒に縄をつけ:少し離れた木の影から引っ張り”ゴォーン、ゴォーン”と鳴らし始めます。
すると前のように池の水が渦巻き始め、がばっと大蛇が頭を持ち上げて人形をひと呑みにして池に潜り込んでいきました。「やった上手くいったぞ」又池の水が波打ち大蛇が浮いたり沈んだり、のた打ち回るが、そのうち弱ったのか池も静かになった。
このことがあってから小僧達は大蛇に呑まれることもなくなり安心して鐘を搗くようになりました。しかし何時までたっても赤茶色に濁った儘:もとの澄んだ綺麗な水には戻らず・村の人達はこの池を「すまずの池」と呼ぶようになりました…(丹波のむかし話 丹波の森協会 参照)
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