山垣城Ⅱ(山麓) 丹波市
全国足立姓の元祖:足立左衛門尉遠政が築き380年に及ぶ足立氏繁栄のシンボル山垣城は丹波でも最古参の城の一つ。山や山城訪問の最適な今の時期だが松茸山(止め山)で登城もままならず、篠山街道が通る佐治宿を抜け県道7号が合流する「小倉」交差点から但馬朝来へ遠坂峠越のR427号を進み遠坂郵便局前交差点を
遠坂川に架かる宝来橋を渡る正面に山垣城右折し遠阪川に架かる宝来橋を渡る。此処に立つ石燈籠(山垣城案内板あり)が惣門跡(大手門)。直進する追手門(大手門)から厩舎跡?・屋敷跡?に若宮神社旧跡碑(城の守護神・旧:愛宕社)に着く。直ぐ下方に”遠政公廟所と顕彰碑が立ち・大手道は三の丸に祀られる愛宕社に向かう。
宝来橋南詰車道脇に山垣城案内と石灯籠(大手門・惣門跡)車道が追手道筋城趾に登城したいが今は”止め山”中なので遠政公廟所より山裾を山垣城先端部(城ノ腰)へ向かう。城の越北面の圃場に山垣舘(足立氏居館:堀屋敷)比定地がある。天正7年(1579)5月18日「明智光秀の丹波攻め」には遠阪峠から丹波へ侵攻した援軍の羽柴秀長軍により遠阪城から山垣城・東芦田・栗栖野城へ、
廟所への山裾・参道右手は武家屋敷跡か?・顕彰碑裏に登城道遠阪川沿いの足立氏・芦田氏の諸城は大軍を前にして其の日の内に次々と落城…山垣城最後の城主:12代足立弥三郎基助は討死。中世戦国を生き抜いてきた丹波の山城として少しは知られる存在で主郭は鞍部東方235mピーク。
足立遠政廟:廟の石扉左右に「五本骨扇」・「酢漿草(カタバミ)」紋が刻まれる鞍部から逆に東尾根を辿る最高所が萬歳山(報恩寺山420m)。現在の万歳山:報恩寺はR427号遠阪郵便局前交差点の東奥の大箕山(丹波冨士)南山麓にあり:山垣城落城の際焼失:文禄3年(1594)福知山長安寺の閑翁教和尚により再建された。
松倉城の大土塁と堀切山垣城とはR427号を挟んで呼応する支城の松倉城は遺跡分布地図にも記載され知られるが更に大規模な八幡山段城(仮称)の存在を知る人は未だ少ない様だが…!?堀切・石積み補強された箱堀・土塁もあり山垣城より後の築造!(詳細不詳)。
八幡山段城:大土塁と堀切(箱堀)の石積土橋
「尊卑分脈」によると丹波の名族:足立一族の元祖は藤原(中臣)鎌足<614~669>で14世:遠兼が武蔵国足立郡を領して北条氏に仕えた豪族:15世久保田(足立)遠元が地名の足立氏を名乗った足立家の遠祖。武勇の誉れ高く:鎌倉幕府源頼朝の
佐治郷に入部した足立遠政の上屋敷(閉校した青垣中学校跡)武道指範でもあり頼朝や政子の信頼厚く建久元年(1190)頼朝上洛に際し布衣(ほい)侍(国司・国府の次官級官位?)12人に選ばれて参院の供奉をし頼朝の推挙で左衛門尉に任ぜられ鎌倉幕府の要職にあったが北条氏の台頭に勢力を失っていくなか足立氏も遠元の孫で遠光の息子で北条氏に仕えていた足立(左衛門尉)遠政が
本拠を佐治:岩本城から山垣城へ移る(左:萬歳山・正面右に山垣城)
承元3年(1209)?か承久3年(1221)中央から遠く離れた氷上郡佐治郷に地頭職を任命され佐治に入部し小倉に岩本城を築くが後:本拠を萬歳山に移し山垣城を築く。山垣城は萬歳山城・報恩寺山城とも呼ばれるが…足立左衛門尉遠政が山垣へ移ってきたとき山頂付近に足立一族の菩提寺:報恩寺を建立し祖父遠元・父遠光を祀った。
足立遠政廟裏:大手口の山王・若宮神社(現:愛宕社)薄暗く何の特徴もない植林の中に緩やかな傾斜をともなった広い平坦地形に城趾遺構を見ないが?ドーム型山容が旧火山跡だとは山頂部付近に玄武岩を観る。…城主であった筈!!?の足立権太兵衛基則(岩本城主・足立遠政下屋敷の妙法寺開基)
山垣館:正面:山垣城・左:萬歳山・右手奥:福知山市小牧境の烏帽子山城
について触れてみたいたが…基助:基則の関連が系図からも記述不明・不詳!!。氷上郡(丹波市)最大規模の戦闘:香良合戦の芦田氏・足立氏連合の一方の将が足立権太兵衛基則。天正の明智光秀「丹波攻め」の際:香良合戦の遺恨もあってか?
妙法寺開基の足立権太兵衛基則墓碑・石廟に足立氏遠祖・先祖を祀る
足立一族から基則のみ荻野・赤井氏傘下に加わらず(惣領家存続!足立一族へ災禍が及ぶの危惧して造反!?)山垣城を一族の基助(山垣城主として着任の年に落城)に任せ、光秀方に付いて転戦・本能寺の変にも参戦光秀が天王山に敗れた翌
香良合戦場:足立氏居館前の神社紋は二引両‼内庭に比翼塚祠:主”足立権x?”とある…基則か?天正11年(1583)正月・亀山で自刃。丹波攻めに寺社が兵火に焼亡するなか妙法寺が被災を免れ、織田方の制札が立てられ陣所ともなった様…。戦後:足立一族が領内に帰農し生き残る保障に尽力した事は否めない。
遠坂川に架かる宝来橋を渡る正面に山垣城右折し遠阪川に架かる宝来橋を渡る。此処に立つ石燈籠(山垣城案内板あり)が惣門跡(大手門)。直進する追手門(大手門)から厩舎跡?・屋敷跡?に若宮神社旧跡碑(城の守護神・旧:愛宕社)に着く。直ぐ下方に”遠政公廟所と顕彰碑が立ち・大手道は三の丸に祀られる愛宕社に向かう。
宝来橋南詰車道脇に山垣城案内と石灯籠(大手門・惣門跡)車道が追手道筋城趾に登城したいが今は”止め山”中なので遠政公廟所より山裾を山垣城先端部(城ノ腰)へ向かう。城の越北面の圃場に山垣舘(足立氏居館:堀屋敷)比定地がある。天正7年(1579)5月18日「明智光秀の丹波攻め」には遠阪峠から丹波へ侵攻した援軍の羽柴秀長軍により遠阪城から山垣城・東芦田・栗栖野城へ、
廟所への山裾・参道右手は武家屋敷跡か?・顕彰碑裏に登城道遠阪川沿いの足立氏・芦田氏の諸城は大軍を前にして其の日の内に次々と落城…山垣城最後の城主:12代足立弥三郎基助は討死。中世戦国を生き抜いてきた丹波の山城として少しは知られる存在で主郭は鞍部東方235mピーク。
足立遠政廟:廟の石扉左右に「五本骨扇」・「酢漿草(カタバミ)」紋が刻まれる鞍部から逆に東尾根を辿る最高所が萬歳山(報恩寺山420m)。現在の万歳山:報恩寺はR427号遠阪郵便局前交差点の東奥の大箕山(丹波冨士)南山麓にあり:山垣城落城の際焼失:文禄3年(1594)福知山長安寺の閑翁教和尚により再建された。
松倉城の大土塁と堀切山垣城とはR427号を挟んで呼応する支城の松倉城は遺跡分布地図にも記載され知られるが更に大規模な八幡山段城(仮称)の存在を知る人は未だ少ない様だが…!?堀切・石積み補強された箱堀・土塁もあり山垣城より後の築造!(詳細不詳)。
八幡山段城:大土塁と堀切(箱堀)の石積土橋
「尊卑分脈」によると丹波の名族:足立一族の元祖は藤原(中臣)鎌足<614~669>で14世:遠兼が武蔵国足立郡を領して北条氏に仕えた豪族:15世久保田(足立)遠元が地名の足立氏を名乗った足立家の遠祖。武勇の誉れ高く:鎌倉幕府源頼朝の
佐治郷に入部した足立遠政の上屋敷(閉校した青垣中学校跡)武道指範でもあり頼朝や政子の信頼厚く建久元年(1190)頼朝上洛に際し布衣(ほい)侍(国司・国府の次官級官位?)12人に選ばれて参院の供奉をし頼朝の推挙で左衛門尉に任ぜられ鎌倉幕府の要職にあったが北条氏の台頭に勢力を失っていくなか足立氏も遠元の孫で遠光の息子で北条氏に仕えていた足立(左衛門尉)遠政が
本拠を佐治:岩本城から山垣城へ移る(左:萬歳山・正面右に山垣城)
承元3年(1209)?か承久3年(1221)中央から遠く離れた氷上郡佐治郷に地頭職を任命され佐治に入部し小倉に岩本城を築くが後:本拠を萬歳山に移し山垣城を築く。山垣城は萬歳山城・報恩寺山城とも呼ばれるが…足立左衛門尉遠政が山垣へ移ってきたとき山頂付近に足立一族の菩提寺:報恩寺を建立し祖父遠元・父遠光を祀った。
足立遠政廟裏:大手口の山王・若宮神社(現:愛宕社)薄暗く何の特徴もない植林の中に緩やかな傾斜をともなった広い平坦地形に城趾遺構を見ないが?ドーム型山容が旧火山跡だとは山頂部付近に玄武岩を観る。…城主であった筈!!?の足立権太兵衛基則(岩本城主・足立遠政下屋敷の妙法寺開基)
山垣館:正面:山垣城・左:萬歳山・右手奥:福知山市小牧境の烏帽子山城
について触れてみたいたが…基助:基則の関連が系図からも記述不明・不詳!!。氷上郡(丹波市)最大規模の戦闘:香良合戦の芦田氏・足立氏連合の一方の将が足立権太兵衛基則。天正の明智光秀「丹波攻め」の際:香良合戦の遺恨もあってか?
妙法寺開基の足立権太兵衛基則墓碑・石廟に足立氏遠祖・先祖を祀る
足立一族から基則のみ荻野・赤井氏傘下に加わらず(惣領家存続!足立一族へ災禍が及ぶの危惧して造反!?)山垣城を一族の基助(山垣城主として着任の年に落城)に任せ、光秀方に付いて転戦・本能寺の変にも参戦光秀が天王山に敗れた翌
香良合戦場:足立氏居館前の神社紋は二引両‼内庭に比翼塚祠:主”足立権x?”とある…基則か?天正11年(1583)正月・亀山で自刃。丹波攻めに寺社が兵火に焼亡するなか妙法寺が被災を免れ、織田方の制札が立てられ陣所ともなった様…。戦後:足立一族が領内に帰農し生き残る保障に尽力した事は否めない。
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