志賀の里伝説(御用柿・しずく松) 綾部市

北野城(志賀城)取付点の諏訪神社鳥居前に志賀の里 七不思議の一「諏訪大明神の柿」案内板がある。吾雀荘(あすずきしょう)志賀郷は藤原時代末期の永暦年間(1160-61)京都・新熊野社の荘園として寄進勧進され・其の後!比叡山延暦寺荘園として寄進された直轄領となり、さらに諏訪神社神官の家系にあった上原氏が建久年間(1190-99)物部郷に入封され物部城を築き諏訪神社が建てられた。
          志賀郷:諏訪神社「御用柿」の背に北野城(志賀城)
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後発の志賀氏「応永年間(1394ー1428)」志賀頼宗が志賀郷領主として来住後:一帯に勢力を張る物部氏傘下に組入れられ、領内に諏訪神社を勧進したものか金丸親王(麻呂子親王)の鬼退治伝承では第31代用明天皇(在位:敏達14年ー用明2年585-587)の頃に既に諏訪大明神が祀られていた…?。18世紀中頃に記された”神社仏閣七不思議縁起”によると用明天皇の勅命に大江山の鬼(丹波の地方豪族<丹波鬼>)を討伐・
        上原氏が勧進した諏訪神社の背山に物部城が迫る
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平定し自刻:七体の薬師如来像を祀った七寺を開き国家安泰・子孫繁栄を祈願された。即ち:藤波大明神の白藤・金宮大明神の茗荷・若宮大明神の白萩 ・白田(後の篠田)大明神の竹(筍)・諏訪大明神のの実をお手植えされ、以来:志賀の里に色々不思議な奇瑞があらわれるようになったという。季節外れの真冬に生える茗荷やタケノコ、同じく冬に花咲く藤や萩や実をつける柿、此れに向田の里のゆるき松・
          位田橋北詰めから望む高城山
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しずく松
も(風も吹かないのに揺れる松・雨も降らないのに雫が落ちる松)の霊験があらわれ、合わせて志賀の里の七不思議伝説として語り継がれてきました。「御用柿」の伝説…旧暦の正月6日朝:神殿前の手植えの柿の木に花が咲き実が三つなり、日中になると色艶良く熟するという。御用柿は五色の柿・御所柿とも云われ毎年箱に入れられ宮廷に献上する慣わしになっていた…が飛脚が此の柿を持って
        向田地区のゆるぎ松「小狭1号墳)」
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京都に上る途中・咽喉が渇き、民家に入りお茶を飲んだところ俄かに腹痛がおこり、其れと一緒に 柿の箱は北の空へ飛び去ってしまい、此まで精進潔斎し・身と心を清めてきたのに、火を通したお茶との”食い合わせ”の掟を破ったのがいけなかった…以来此の奇瑞は途絶えたという。向田の里の「しずく松」…向田に古松の大木があり五社の霊験があらわれるようになってからは、
      志賀郷”しずく松”伝承地「小狭2号墳」から松原城跡
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毎年正月六日の午前10時になると、雨も降らないのに松の葉から雫が雨の様にポタポタ落ちたと云う。その雫の様子(多少)によって、その年の旱魃や水害などの災害を占い、里の人はこれを見て、その年の耕作を工夫したということです。「ゆるぎ松」は風もないのに枝を揺らした…都に吉事がある時は上の枝が揺れ、凶事のある時は下の枝が揺れたと伝えられた。
           福知山城の天守・小天守・続櫓
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しずく松・ゆるぎ松は明智光秀が天正7年(1579)横山城を廃し福知山城新築の際:占いに”川上に名木があり此れを棟木にすると成就する”と出たので向田・鎌倉の「しずく松・ゆるぎ松」を探し伐採したが樵(きこり)がいくら切り倒しても、その切り材が夜中に集まり元の木になっており、樵は驚き恐れ切る事が出来なくなった。光秀は怒って松の木を切っては燃やし、大幹だけを残し全部焼き捨てたと云う

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