高藏寺砦(仮称) 篠山市高倉
県道77号(篠山山南線)はJR福知山線沿いの篠山川に沿って丹波竜の里公園から川代恐竜街道(篠山川峡谷)を篠山市大山下に抜け、大山城南域を捲くように大山川を渡りR176号に出る。R176号「大山下」交差点を丹波市柏原町側に左折し鐘ヶ坂峠に向かう。池尻神社への分岐付近から沿道筋の民家は西方の大山川沿いの
高蔵寺砦主曲輪背後の堀切土橋篠山街道筋にかわる。国道側・浄土寺の先凡そ500m程に「桜の名所 高蔵寺1.8km」の大きなサインボードが立つ。R176 号の前方5-60m先には大山ふれあい朝市等が開催される大山振興会の創造センターやヒマラヤンワルツ(カレー)がある。近年:花の寺として知られるようになった高藏寺は
高蔵寺本堂西多紀アルプスの雌岳:夏栗山(明智付城の一:夏栗砦)・雄岳:黒頭峰(くろつぼ)から佐中峠(春日町国領へ通じる)を三尾山(荻野直政の弟:赤井幸家の三尾山城)…への登山口として利用していた。黒頭峰の尾根続き西方の瓶割(かめわり)峠も、鐘ヶ坂から通じる国領へ越え、黒頭峰ともに大山川の源頭部にあり峠は軍事的にも要衝。
高蔵寺本堂宝橋山:高藏寺(天台宗)は孝徳天皇大化2年(646)法道仙人開基を伝え、黒頭峰に架かる虹?(金銀珠玉の雲)の架け橋を見て"宝橋山"と号したと云われるが何処から望んだものか?…黒頭峰の山腹に一宇を建立されたことに始まるという古刹で、隆盛時:堂之尾に七堂伽藍を備え僧坊二十一を数えたが
高低差の少ない3-4段の曲輪群天正の明智丹波国攻略(八上城・黒井城攻め)の兵火に遭い焼亡したという。山岳寺院:高藏寺跡は未確認だが、高蔵寺奥の院から黒頭峰・夏栗方面ではなく・裏手から北西に入る林道を跨ぐ尾根に取付くと標高350m付近に3-4段の曲輪・主曲輪から続く尾根筋の二重堀切の主曲輪側土橋を下り、
主曲輪(平坦段)もう一本の堀切を越えると比較的緩斜面の上り尾根が続くだけ。多くの堂宇・僧坊を擁した古刹:山岳寺院の高蔵寺が寺域より前面・低位置に曲輪に切岸や土塁…等防備施設を持たず、位置的にはR176号(山陰道要衝監視には高倉谷の奥過ぎ・山に囲まれた低部では通信・見張にも不適。
主曲輪背後の尾根続き:土塁を挟む二重堀切高倉谷南方の尾根筋を隔てた一印谷城と同様に有事の際:高倉谷百姓等が抗議や臨戦時に戦乱を避けて避難する”逃げの城”ではなかったかとも推測。高蔵寺は明智光秀の丹波攻略の際の兵火に焼かれているが、大山荘の荘園官吏の(東寺領)
尾根続きに遺構らしいものはなく土橋を戻る代官の横暴や搾取・地頭職を得て入部した領主間の領分協約を侵害し横領する等支配紛争が続いていたようだが、年貢や賦役…自然災害等による損免要求…等百姓らが田畑の作業を放棄し対抗する等意思表示して拠った避難場所だったのかも。
高蔵寺砦主曲輪背後の堀切土橋篠山街道筋にかわる。国道側・浄土寺の先凡そ500m程に「桜の名所 高蔵寺1.8km」の大きなサインボードが立つ。R176 号の前方5-60m先には大山ふれあい朝市等が開催される大山振興会の創造センターやヒマラヤンワルツ(カレー)がある。近年:花の寺として知られるようになった高藏寺は
高蔵寺本堂西多紀アルプスの雌岳:夏栗山(明智付城の一:夏栗砦)・雄岳:黒頭峰(くろつぼ)から佐中峠(春日町国領へ通じる)を三尾山(荻野直政の弟:赤井幸家の三尾山城)…への登山口として利用していた。黒頭峰の尾根続き西方の瓶割(かめわり)峠も、鐘ヶ坂から通じる国領へ越え、黒頭峰ともに大山川の源頭部にあり峠は軍事的にも要衝。
高蔵寺本堂宝橋山:高藏寺(天台宗)は孝徳天皇大化2年(646)法道仙人開基を伝え、黒頭峰に架かる虹?(金銀珠玉の雲)の架け橋を見て"宝橋山"と号したと云われるが何処から望んだものか?…黒頭峰の山腹に一宇を建立されたことに始まるという古刹で、隆盛時:堂之尾に七堂伽藍を備え僧坊二十一を数えたが
高低差の少ない3-4段の曲輪群天正の明智丹波国攻略(八上城・黒井城攻め)の兵火に遭い焼亡したという。山岳寺院:高藏寺跡は未確認だが、高蔵寺奥の院から黒頭峰・夏栗方面ではなく・裏手から北西に入る林道を跨ぐ尾根に取付くと標高350m付近に3-4段の曲輪・主曲輪から続く尾根筋の二重堀切の主曲輪側土橋を下り、
主曲輪(平坦段)もう一本の堀切を越えると比較的緩斜面の上り尾根が続くだけ。多くの堂宇・僧坊を擁した古刹:山岳寺院の高蔵寺が寺域より前面・低位置に曲輪に切岸や土塁…等防備施設を持たず、位置的にはR176号(山陰道要衝監視には高倉谷の奥過ぎ・山に囲まれた低部では通信・見張にも不適。
主曲輪背後の尾根続き:土塁を挟む二重堀切高倉谷南方の尾根筋を隔てた一印谷城と同様に有事の際:高倉谷百姓等が抗議や臨戦時に戦乱を避けて避難する”逃げの城”ではなかったかとも推測。高蔵寺は明智光秀の丹波攻略の際の兵火に焼かれているが、大山荘の荘園官吏の(東寺領)
尾根続きに遺構らしいものはなく土橋を戻る代官の横暴や搾取・地頭職を得て入部した領主間の領分協約を侵害し横領する等支配紛争が続いていたようだが、年貢や賦役…自然災害等による損免要求…等百姓らが田畑の作業を放棄し対抗する等意思表示して拠った避難場所だったのかも。
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