黒田城(仮称) 篠山市
JR福知山線沿い篠山川に沿う県道77号は篠山川に流れ出る大山川を渡る北面:河川段丘の崖上に大山荘地頭:中澤氏の大山城を望みながらR176号 「大山下」交差点に出る。R176号を北上し”鐘ヶ坂峠”を丹波市側に抜ける丘陵上には
新栄橋東詰(宮田川)から黒田交差点と黒田城南郭”丹波攻め”明智光秀により多紀郡(篠山市)波多野氏の八上城と氷上郡(丹波市)荻野直正の黒井城との連絡を分断・監視する金山城がある。時代は更に遡る?が:大山荘内を分け縦断する山陰道:篠山街道筋からは、丘陵に囲まれた谷の奥に入り込む
宮田川(黒田・新栄橋から)一井谷(一印谷)に一印谷城:高倉谷には高蔵砦(仮称)があり何れもが田園地帯最奥地の丘陵上に砦遺構が遺るが、要衝監視の見張りには不適・堀切以外に防禦施設は見当たらない。大山荘(京都東寺領)の荘園官吏代官の横暴や搾取・地頭職を得て
「黒田」交差点右手角の取付点に5-6基(村相撲?)の力士碑が立つ入部した領主間の領分協約を侵害し横領する等支配紛争が続いていたが、年貢や賦役…自然災害等による損免要求…戦乱の兵火を避け百姓らが田畑の作業を放棄し対抗する等の意思表示に籠もった”逃げの城”避難場所だったのかも。
黒田城南郭中央部西面の虎口から落ちる竪堀一方:東寺領大山荘中澤氏の大山城から県道77号を東に隣接する宮田荘へ凡そ1.5km地点「黒田」交差点傍に黒田城(南郭・北郭)がある。城域南先端をR176号(山陰道)に通じる県道77号が・西裾の宮田川沿いの県道97号(篠山三和線)が栗柄峠から鼓峠を三和町友渕・R9号(山陰道)に繫がる。
南郭中央部東面の帯曲輪と下部に山道(Tu-kaホン関西の巡視路?)黒井城攻略第一次合戦に明智光秀が命辛々逃走したルートともされる街道。宮田川河口迄約1Km南下すると黒田古館とも呼ばれ黒田村の丹波少将(藤原)成経の居館との伝承が残る少将山でR176号に出る。西方へは味間から西脇市・加西・姫路市方面・JR古市から今田町経由で加東市・小野市から三木市…への西国・山陽道。
南郭西南端の低土塁の残欠R176号は三田・西宮方面への摂津道の通じる…が商用・軍事的にどれ程の要衝であったかは少し疑問?。さて:平安期の宮田荘は藤原氏所領だったが平氏滅亡・鎌倉時代になると近衛家領となり以降続き・新補地頭が置かれたが摂関家の威を借り東寺領の大山荘を圧迫。地頭xx某を罷免し以後は宮田荘に地頭を置かれなかった。
南郭西北端から南へ延びる低土塁大山荘に入部した中澤氏が近衛家領宮田荘を武力で圧迫、大山荘の山の芝草を刈る利権・宮田川の水利利権を巡り互いに乱入を繰り返したものか?。罷免された地頭が悪党となり栗柄村に入り、宮田荘に乱入・一族徒党300余を率い城さえ構えたと云う。黒田城西面の竪掘・低土塁は此に乱入に抗してのものか?。
尾根緩衝部?の堀切先に北郭が左右に延びる中澤氏(中澤元基)が宮田荘を年契約で請切しているが…其の後:山名氏の内紛や垣屋氏が隆盛・波々伯部氏が淀山城から分家して宮田荘に居た頃の築城か?…山名が衰退・替わり守護となった細川氏の明徳・応永年間(1394ー1428)頃の古城でしょうか?。永正5年(1508)細川氏の内紛に澄元派の中澤氏・酒井氏一党:高国派の
丘陵部最高所の北郭主曲輪波多野・波々伯部・大芋氏らの福徳貴寺合戦があった。西紀側から黒田城を割って抜け出る車道(走りやすい全線舗装道路)が黒田交差点からの車道と合う処に負け嫌い黒田の稲荷社の黒田山兵衛稲荷)がある。登城口の力士碑は此に縁を結ぶものか…。県道97号:あすか農房分岐手前交差点工場傍からの車道が城域北部を割いて
黒田の稲荷神社と旧西紀南小学校跡石碑兵衛稲荷社に抜けるが稲荷社東面を「西谷」から「宮田」へ県道140号(篠山街道)・直進は西谷城をトンネルで抜け県道97号黒豆の館に出る。稲荷社丘陵上に遺構はあるかも!。黒田城が地頭の領内監視か山名氏・細川氏の関わる要衝監視か?、城域の規模や遺構の”見立て”については以後の訪城探索者に託し割愛する。
新栄橋東詰(宮田川)から黒田交差点と黒田城南郭”丹波攻め”明智光秀により多紀郡(篠山市)波多野氏の八上城と氷上郡(丹波市)荻野直正の黒井城との連絡を分断・監視する金山城がある。時代は更に遡る?が:大山荘内を分け縦断する山陰道:篠山街道筋からは、丘陵に囲まれた谷の奥に入り込む
宮田川(黒田・新栄橋から)一井谷(一印谷)に一印谷城:高倉谷には高蔵砦(仮称)があり何れもが田園地帯最奥地の丘陵上に砦遺構が遺るが、要衝監視の見張りには不適・堀切以外に防禦施設は見当たらない。大山荘(京都東寺領)の荘園官吏代官の横暴や搾取・地頭職を得て
「黒田」交差点右手角の取付点に5-6基(村相撲?)の力士碑が立つ入部した領主間の領分協約を侵害し横領する等支配紛争が続いていたが、年貢や賦役…自然災害等による損免要求…戦乱の兵火を避け百姓らが田畑の作業を放棄し対抗する等の意思表示に籠もった”逃げの城”避難場所だったのかも。
黒田城南郭中央部西面の虎口から落ちる竪堀一方:東寺領大山荘中澤氏の大山城から県道77号を東に隣接する宮田荘へ凡そ1.5km地点「黒田」交差点傍に黒田城(南郭・北郭)がある。城域南先端をR176号(山陰道)に通じる県道77号が・西裾の宮田川沿いの県道97号(篠山三和線)が栗柄峠から鼓峠を三和町友渕・R9号(山陰道)に繫がる。
南郭中央部東面の帯曲輪と下部に山道(Tu-kaホン関西の巡視路?)黒井城攻略第一次合戦に明智光秀が命辛々逃走したルートともされる街道。宮田川河口迄約1Km南下すると黒田古館とも呼ばれ黒田村の丹波少将(藤原)成経の居館との伝承が残る少将山でR176号に出る。西方へは味間から西脇市・加西・姫路市方面・JR古市から今田町経由で加東市・小野市から三木市…への西国・山陽道。
南郭西南端の低土塁の残欠R176号は三田・西宮方面への摂津道の通じる…が商用・軍事的にどれ程の要衝であったかは少し疑問?。さて:平安期の宮田荘は藤原氏所領だったが平氏滅亡・鎌倉時代になると近衛家領となり以降続き・新補地頭が置かれたが摂関家の威を借り東寺領の大山荘を圧迫。地頭xx某を罷免し以後は宮田荘に地頭を置かれなかった。
南郭西北端から南へ延びる低土塁大山荘に入部した中澤氏が近衛家領宮田荘を武力で圧迫、大山荘の山の芝草を刈る利権・宮田川の水利利権を巡り互いに乱入を繰り返したものか?。罷免された地頭が悪党となり栗柄村に入り、宮田荘に乱入・一族徒党300余を率い城さえ構えたと云う。黒田城西面の竪掘・低土塁は此に乱入に抗してのものか?。
尾根緩衝部?の堀切先に北郭が左右に延びる中澤氏(中澤元基)が宮田荘を年契約で請切しているが…其の後:山名氏の内紛や垣屋氏が隆盛・波々伯部氏が淀山城から分家して宮田荘に居た頃の築城か?…山名が衰退・替わり守護となった細川氏の明徳・応永年間(1394ー1428)頃の古城でしょうか?。永正5年(1508)細川氏の内紛に澄元派の中澤氏・酒井氏一党:高国派の
丘陵部最高所の北郭主曲輪波多野・波々伯部・大芋氏らの福徳貴寺合戦があった。西紀側から黒田城を割って抜け出る車道(走りやすい全線舗装道路)が黒田交差点からの車道と合う処に負け嫌い黒田の稲荷社の黒田山兵衛稲荷)がある。登城口の力士碑は此に縁を結ぶものか…。県道97号:あすか農房分岐手前交差点工場傍からの車道が城域北部を割いて
黒田の稲荷神社と旧西紀南小学校跡石碑兵衛稲荷社に抜けるが稲荷社東面を「西谷」から「宮田」へ県道140号(篠山街道)・直進は西谷城をトンネルで抜け県道97号黒豆の館に出る。稲荷社丘陵上に遺構はあるかも!。黒田城が地頭の領内監視か山名氏・細川氏の関わる要衝監視か?、城域の規模や遺構の”見立て”については以後の訪城探索者に託し割愛する。
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