Ⅲ:波賀野新田城 篠山市波賀野新田
波賀野城は摂津三田方面から多紀郡(篠山市)に入ってくる玄関口に位置し、矢代酒井党の宗家:益氏が継ぎ4代目:秀氏の嫡男:氏吉が矢代城・弟の酒井(矢代)右衛門兵衛が波賀野酒井党として天文年間(1532-55)末から弘治初年(1555-58)
波賀野出雲神社上ノ砦:北尾根先端付近の曲輪段摂津三田方面から国境の日出坂を越え北上してくる三好氏の軍勢に対する備えとして築城したと云われる!。当時は三好長慶・松永久秀等による摂津や丹波領への攻略が始まっており弘治2年(1556)?龍蔵寺合戦の際には三好長慶・松永久秀方の
波賀野新田城の雛壇状段曲輪群北先端部八上城向城として岡崎山砦…を築き龍蔵寺城(真南条上城)…等に対峙し激しい戦いが続けられ此の合戦に八上城は落城し…永禄9年(1566年)波多野秀治が八上城を奪還するまで10年間多紀郡は三好氏が支配するところとなった。
波賀野新田城尾根続き南端の浅い堀切ところで波賀野城は三田方面:南方からの侵攻に備えている様だが波賀野出雲神社上ノ砦(篠山市波賀野)・波賀野新田城(篠山市波賀野新田)の二城は南からの侵攻監視とは逆の北・北東しか望めない。要衝の街道筋は南北500m程の狭間・三城が呼応し
波賀野出雲神社上ノ砦尾根続き南の浅い堀切両サイドから出撃・挟み打ちすれば…!!と…史誌・地誌…等に一切不明・存在さえ未確認の城砦だが地勢・位置や縄張特性?…等から構築された時代や往時の情勢を推察してみる…と油井城は天文年間(1532-55)酒井幸貞により築城されたと思われるが、
波賀野城の堀切と主郭側の切岸永正年間(1504-21)細川高国・澄元との内乱に多紀郡内では福徳貴寺合戦永正5年)…もあり、八上波多野氏・淀山波々伯部氏・豊林寺城等の大芋氏らは高国側:大山中澤氏や酒井家一党は澄元側に付き波多野氏らと対戦したが高国方に敗れる。
油井城の大堀切波賀野城や波賀野新田城・神社上砦は此の合戦による臨戦の砦だったか。応仁の乱の戦功に細川氏の被官:波多野清秀が石見国より入り奥谷城(八上城の前身)拠点に酒井氏ら豪族討伐に向かう”酒井合戦”?…や高国方波多野氏らと対戦し敗れた
油井城の石積み残欠酒井氏らは其の配下に組入れられ波賀野新田城・砦は廃棄。波賀野城の深い堀切や油井城は石積み補強され…多紀郡最南端の前戦基地として要衝守備に充ったものか?…天文から弘治・永禄へと続く戦乱期最後は天正7年:明智光秀の八上城攻め。
波賀野新田城の段曲輪群城主波多野秀治亡き後の守将:二階堂秀香(秀治の義弟)は油井城酒井重貞の二男。波賀野出雲神社上ノ砦(270m)・波賀野新田城(310m)は波賀野城と呼応し北方の篠山盆地西南口を堅める陣城!?だが、東方に遠い八上城の波多野氏や
波賀野新田城:堀切から下方への曲輪段淀山城の波々伯部に対する油井や南矢代・波賀野・栗栖野の酒井党が、未だ酒井家一族が個別の城を持たず臨戦態勢の臨時砦を築いたものか?。デカンショ街道(旧372号)の旧道は波賀野新田城の真北:酒造”秀月”前を通っていた。
波賀野新田城:北下方先端付近の切岸「狩場酒造…」とあり”お狩場”を想像していたが”秀月”の社長名…!。油井城から西は古市経由・東面は武庫川の当野経由で出雲神社付近の平野に出てくる狭い盆地への出入口。現:波賀野城や油井城の堀切に比し新殿城・出雲神社砦の浅い堀切が古い酒井党臨戦の縄張りと思える
新田城からアンテナ山(仮)388mまで直近の主尾根筋
Ⅰ:酒井郷の山城と酒井一党 Ⅱ:波賀野出雲神社上ノ砦
波賀野出雲神社上ノ砦:北尾根先端付近の曲輪段摂津三田方面から国境の日出坂を越え北上してくる三好氏の軍勢に対する備えとして築城したと云われる!。当時は三好長慶・松永久秀等による摂津や丹波領への攻略が始まっており弘治2年(1556)?龍蔵寺合戦の際には三好長慶・松永久秀方の
波賀野新田城の雛壇状段曲輪群北先端部八上城向城として岡崎山砦…を築き龍蔵寺城(真南条上城)…等に対峙し激しい戦いが続けられ此の合戦に八上城は落城し…永禄9年(1566年)波多野秀治が八上城を奪還するまで10年間多紀郡は三好氏が支配するところとなった。
波賀野新田城尾根続き南端の浅い堀切ところで波賀野城は三田方面:南方からの侵攻に備えている様だが波賀野出雲神社上ノ砦(篠山市波賀野)・波賀野新田城(篠山市波賀野新田)の二城は南からの侵攻監視とは逆の北・北東しか望めない。要衝の街道筋は南北500m程の狭間・三城が呼応し
波賀野出雲神社上ノ砦尾根続き南の浅い堀切両サイドから出撃・挟み打ちすれば…!!と…史誌・地誌…等に一切不明・存在さえ未確認の城砦だが地勢・位置や縄張特性?…等から構築された時代や往時の情勢を推察してみる…と油井城は天文年間(1532-55)酒井幸貞により築城されたと思われるが、
波賀野城の堀切と主郭側の切岸永正年間(1504-21)細川高国・澄元との内乱に多紀郡内では福徳貴寺合戦永正5年)…もあり、八上波多野氏・淀山波々伯部氏・豊林寺城等の大芋氏らは高国側:大山中澤氏や酒井家一党は澄元側に付き波多野氏らと対戦したが高国方に敗れる。
油井城の大堀切波賀野城や波賀野新田城・神社上砦は此の合戦による臨戦の砦だったか。応仁の乱の戦功に細川氏の被官:波多野清秀が石見国より入り奥谷城(八上城の前身)拠点に酒井氏ら豪族討伐に向かう”酒井合戦”?…や高国方波多野氏らと対戦し敗れた
油井城の石積み残欠酒井氏らは其の配下に組入れられ波賀野新田城・砦は廃棄。波賀野城の深い堀切や油井城は石積み補強され…多紀郡最南端の前戦基地として要衝守備に充ったものか?…天文から弘治・永禄へと続く戦乱期最後は天正7年:明智光秀の八上城攻め。
波賀野新田城の段曲輪群城主波多野秀治亡き後の守将:二階堂秀香(秀治の義弟)は油井城酒井重貞の二男。波賀野出雲神社上ノ砦(270m)・波賀野新田城(310m)は波賀野城と呼応し北方の篠山盆地西南口を堅める陣城!?だが、東方に遠い八上城の波多野氏や
波賀野新田城:堀切から下方への曲輪段淀山城の波々伯部に対する油井や南矢代・波賀野・栗栖野の酒井党が、未だ酒井家一族が個別の城を持たず臨戦態勢の臨時砦を築いたものか?。デカンショ街道(旧372号)の旧道は波賀野新田城の真北:酒造”秀月”前を通っていた。
波賀野新田城:北下方先端付近の切岸「狩場酒造…」とあり”お狩場”を想像していたが”秀月”の社長名…!。油井城から西は古市経由・東面は武庫川の当野経由で出雲神社付近の平野に出てくる狭い盆地への出入口。現:波賀野城や油井城の堀切に比し新殿城・出雲神社砦の浅い堀切が古い酒井党臨戦の縄張りと思える
新田城からアンテナ山(仮)388mまで直近の主尾根筋
Ⅰ:酒井郷の山城と酒井一党 Ⅱ:波賀野出雲神社上ノ砦
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