津居山城(Ⅱ:気比の城!?) 豊岡市
河川港の津居山港は北前廻船西ルート但馬海岸の寄港:主要な海運基地として利用されてきた。津居山城は円山川右岸河口・津居山集落背後の丘陵上:八幡神社境内を「館城」・尾根続きの最高所113mを詰め城として、北は但馬海岸・東と南面を円山川河口・津居山湾、西面は「瀬戸の切戸」を天然の堀とした要害地にある。
八幡神社境内:津居山海関所・領主の館城建武3年(1336)足利尊氏が九州から上洛の間・尊氏方の今川頼貞は播磨から但馬へ。養父郡小佐郷の地頭:伊達貞綱(小佐城主?)も今川方に付き丹波佐治山(佐治城)を落とし、但馬国に入り…円山川河口の気比の城(気比の高城180mか?:津居山城113mも気比)も一日で落城…。気比の津居山城主が誰であったかは不知。
八幡神社南先端腰曲輪から円山川河口・津居山湾を望む九日市は山名氏が南北朝末期ー室町中期まで但馬国守護所(九日の在所:山名持豊(宗全)の城館)を置いた要衝であり・船運による物資交易・流通の拠点として、河川湊の円山川河口から九日市に至る廻漕の重要性・領主権益の「海関」が津居山湾を
八幡神社参道南石段下の曲輪:南と西激急斜面にも曲輪段 眼下に臨む津居山の丘陵先端部に交易上廻船輸送の安全・警護・擁護の施設があり当初?「校補但馬考」に領主:佐々木氏…応仁の乱(1467ー77)後急速に勢威を落とした山名氏・台頭する被官:垣屋氏の圧力を受け守護所を九日市から直轄領の出石に
津居山城主曲輪(副郭)に建つ”豊岡津居山無線基地局”施設:主郭は空堀を挟む北移した後…但馬日下部氏の庶流で守護職山名氏四天王の一:八木氏の新大夫安高の二男:五郎高重が城崎郡奈佐谷を安堵され:嫡男左衛門尉高盛が奈佐氏を名乗ったと云われ水軍領主として武装化を図り、八幡神社域を居館として但馬海岸線西端の
主郭から北西尾根に延びる曲輪群(Ⅲ郭)から望む主郭芦屋城(塩冶周防守)ともに組織化され連携し?…城史詳細は不知だが、津居山城主:奈佐日本助は尼子家再興軍の尼子勝久・山中鹿之助支援の山名祐豊に従うが天正9年(1580)羽柴秀吉の鳥取攻めには海賊衆として因幡:丸山城に自刃させられる。
八幡神社南参道正面入口南下曲輪への下降点(左端)と切岸津居山山麓・城域のスポットは津居山城(Ⅰ:奈佐日本助の城)に画像添付しているので津居山城(Ⅲ:追山城へ)に少し補足しながら…土塁・竪掘・帯曲輪…等に後世改修されていると思える津居山居館50m(八幡神社)から津居山城113mへ向かいます。
八幡神社境内:津居山海関所・領主の館城建武3年(1336)足利尊氏が九州から上洛の間・尊氏方の今川頼貞は播磨から但馬へ。養父郡小佐郷の地頭:伊達貞綱(小佐城主?)も今川方に付き丹波佐治山(佐治城)を落とし、但馬国に入り…円山川河口の気比の城(気比の高城180mか?:津居山城113mも気比)も一日で落城…。気比の津居山城主が誰であったかは不知。
八幡神社南先端腰曲輪から円山川河口・津居山湾を望む九日市は山名氏が南北朝末期ー室町中期まで但馬国守護所(九日の在所:山名持豊(宗全)の城館)を置いた要衝であり・船運による物資交易・流通の拠点として、河川湊の円山川河口から九日市に至る廻漕の重要性・領主権益の「海関」が津居山湾を
八幡神社参道南石段下の曲輪:南と西激急斜面にも曲輪段 眼下に臨む津居山の丘陵先端部に交易上廻船輸送の安全・警護・擁護の施設があり当初?「校補但馬考」に領主:佐々木氏…応仁の乱(1467ー77)後急速に勢威を落とした山名氏・台頭する被官:垣屋氏の圧力を受け守護所を九日市から直轄領の出石に
津居山城主曲輪(副郭)に建つ”豊岡津居山無線基地局”施設:主郭は空堀を挟む北移した後…但馬日下部氏の庶流で守護職山名氏四天王の一:八木氏の新大夫安高の二男:五郎高重が城崎郡奈佐谷を安堵され:嫡男左衛門尉高盛が奈佐氏を名乗ったと云われ水軍領主として武装化を図り、八幡神社域を居館として但馬海岸線西端の
主郭から北西尾根に延びる曲輪群(Ⅲ郭)から望む主郭芦屋城(塩冶周防守)ともに組織化され連携し?…城史詳細は不知だが、津居山城主:奈佐日本助は尼子家再興軍の尼子勝久・山中鹿之助支援の山名祐豊に従うが天正9年(1580)羽柴秀吉の鳥取攻めには海賊衆として因幡:丸山城に自刃させられる。
八幡神社南参道正面入口南下曲輪への下降点(左端)と切岸津居山山麓・城域のスポットは津居山城(Ⅰ:奈佐日本助の城)に画像添付しているので津居山城(Ⅲ:追山城へ)に少し補足しながら…土塁・竪掘・帯曲輪…等に後世改修されていると思える津居山居館50m(八幡神社)から津居山城113mへ向かいます。
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