津居山城(Ⅲ:津居山城へ) 豊岡市
1:津居山城への起点照満寺:津居山城(八幡神社:居館)のある尾根先端部北面山麓に建立されている浄土真宗本願寺派寺院。津居山113mと159m三角点峰間の広い鞍部に2:本如上人(江戸時代中期ー後期の浄土真宗本願寺派:
八幡神社(居館跡!)にたつ石造九重塔西本願寺第19世宗主)御潮覧…?古碑が建つ。勧進行脚で此の地に拠られた足跡か、照満寺住職が在宅なら情報が得られたかも…3:津居山地区の氏神:八幡神社の祭神は応神天皇・津居山湾から円山川河口部を見渡せる位置にあり、
一乗山照満寺(浄土真宗本願寺派寺院)津居山海関所跡・津居山城主居館跡・津居山山頂部が詰城。4:境内に鎌倉中期作との但馬最大級の石造九重塔(全長5.6m・県文化財指定)がある。丹後由良からの輸送途中避難した舟が置いていったとされる五輪塔は当初:「瀬戸」交差点を右折する港橋東詰め分岐(集落内と漁業組合倉庫…側)小公園に置かれていたものが
津居山山頂部(副郭・手前の主郭間空堀・密集する矢竹に埋まる…)後・現在地に運ばれたものか?。5:八幡神社本殿の北側に亀塚(文化9年(1812)壬申2月13日建立)があり、説明板には津居山沖で捕獲された縁起物の亀の供養・千年万年もの村の漁業や航海の安全と無事を祈り、繁栄発展と大漁祈願・
堀切東端から主郭海難物故者供養のため建立されたものと云い石碑には「つきせしないくよろず代も やすらかにまほもつ舟の 湊をおもへは」と久美浜代官による”津居山湊”と詠込んだ詩が刻まれている。初め津居山湊の海関所施設で領主佐々木氏・
空堀から東下への竪堀は主郭東3段ほどの帯曲輪を遮断…建武3年には山名氏か田結庄氏or垣屋氏が八幡神社(標高50m)館城)・津居山山頂(113m)を詰城を構えた頃?:尊氏方の今川頼貞が但馬に侵攻し津居山城は落城…其の後:奈佐氏が入り水軍基地として城館・陣城を整えたものか?。
主郭からの北西へ延びる尾根筋のⅢ郭北西端段曲輪八幡社境内南と西は参道を挟み藪なかに曲輪・帯曲輪が3ー4段・麓民家の屋根が真下に迫り、落石を招く危険から下段の曲輪には近寄れない程。社の北背後に土塁?(神社拡幅工事の残土かも?)と幅広い空堀状。
同:Ⅲ郭北西先端部の土塁津居山山頂の副郭にはツーカーホン関西: 豊岡北無線局(平成8年完成)・au(KDDI)豊岡津居山無線基地局施設があり、浅い空堀幅約4.5mと主郭側2.5m程の切岸(篠竹の密集で確認出来ない…?)で遮断するが・空堀は主郭東斜面へと3段程の帯曲輪を
主郭・Ⅲ郭間の段曲輪から望む日和山海岸の後ヶ島(竜宮城)遮断して竪堀を落としている。主郭からの東尾根続きの急斜面を幅広い鞍部に降立つと本如上人の古碑からの正面が三角点峰(159m)に延びる。西尾根筋3-4段の曲輪や畑地?の様に広い曲輪段・更に延びる尾根続きは猛烈な篠竹密集地に諦めかけたが、迂回間隙を縫って第Ⅲ郭?に入ると西北端の土塁近くには3-4個
通信施設のある副郭(最上部)手前の段曲輪(大きな改修は無さそう?)散々残置されているが電線等は見ない!?…北面に3段広い帯曲輪をみる…が、埋め据え型の淘甕や木製の炭桶?、何故か裸電球(割れていない)が帯曲輪下2ー3段目は畑地だったか?。石列が覗く土塁の急斜面の尾根筋にも小曲輪群が並ぶよう!。
上段の土橋状は上記画像(小曲輪群)前に繫がる運河の河口部:瀬戸水門近くの祇園社鳥居が見えるが、瀬戸の集落から津居山城へは運河上流の陸橋(階段)右岸付近から、主郭と第Ⅲ郭間の(特に畑地の様に広い)曲輪段に繋がる登山道?が有るよう?。Ⅲ郭から北面は真下に拡がる日和山海岸と後ヶ島(浦島太郎伝説のある竜宮城)を目前に臨む。
主郭西南端の矢竹に埋まる堀切(東端は帯曲輪遮断の竪堀津居山城(Ⅰ:奈佐日本助の城) 津居山城(Ⅱ:気比の城!?) 画像は順不同です
八幡神社(居館跡!)にたつ石造九重塔西本願寺第19世宗主)御潮覧…?古碑が建つ。勧進行脚で此の地に拠られた足跡か、照満寺住職が在宅なら情報が得られたかも…3:津居山地区の氏神:八幡神社の祭神は応神天皇・津居山湾から円山川河口部を見渡せる位置にあり、
一乗山照満寺(浄土真宗本願寺派寺院)津居山海関所跡・津居山城主居館跡・津居山山頂部が詰城。4:境内に鎌倉中期作との但馬最大級の石造九重塔(全長5.6m・県文化財指定)がある。丹後由良からの輸送途中避難した舟が置いていったとされる五輪塔は当初:「瀬戸」交差点を右折する港橋東詰め分岐(集落内と漁業組合倉庫…側)小公園に置かれていたものが
津居山山頂部(副郭・手前の主郭間空堀・密集する矢竹に埋まる…)後・現在地に運ばれたものか?。5:八幡神社本殿の北側に亀塚(文化9年(1812)壬申2月13日建立)があり、説明板には津居山沖で捕獲された縁起物の亀の供養・千年万年もの村の漁業や航海の安全と無事を祈り、繁栄発展と大漁祈願・
堀切東端から主郭海難物故者供養のため建立されたものと云い石碑には「つきせしないくよろず代も やすらかにまほもつ舟の 湊をおもへは」と久美浜代官による”津居山湊”と詠込んだ詩が刻まれている。初め津居山湊の海関所施設で領主佐々木氏・
空堀から東下への竪堀は主郭東3段ほどの帯曲輪を遮断…建武3年には山名氏か田結庄氏or垣屋氏が八幡神社(標高50m)館城)・津居山山頂(113m)を詰城を構えた頃?:尊氏方の今川頼貞が但馬に侵攻し津居山城は落城…其の後:奈佐氏が入り水軍基地として城館・陣城を整えたものか?。
主郭からの北西へ延びる尾根筋のⅢ郭北西端段曲輪八幡社境内南と西は参道を挟み藪なかに曲輪・帯曲輪が3ー4段・麓民家の屋根が真下に迫り、落石を招く危険から下段の曲輪には近寄れない程。社の北背後に土塁?(神社拡幅工事の残土かも?)と幅広い空堀状。
同:Ⅲ郭北西先端部の土塁津居山山頂の副郭にはツーカーホン関西: 豊岡北無線局(平成8年完成)・au(KDDI)豊岡津居山無線基地局施設があり、浅い空堀幅約4.5mと主郭側2.5m程の切岸(篠竹の密集で確認出来ない…?)で遮断するが・空堀は主郭東斜面へと3段程の帯曲輪を
主郭・Ⅲ郭間の段曲輪から望む日和山海岸の後ヶ島(竜宮城)遮断して竪堀を落としている。主郭からの東尾根続きの急斜面を幅広い鞍部に降立つと本如上人の古碑からの正面が三角点峰(159m)に延びる。西尾根筋3-4段の曲輪や畑地?の様に広い曲輪段・更に延びる尾根続きは猛烈な篠竹密集地に諦めかけたが、迂回間隙を縫って第Ⅲ郭?に入ると西北端の土塁近くには3-4個
通信施設のある副郭(最上部)手前の段曲輪(大きな改修は無さそう?)散々残置されているが電線等は見ない!?…北面に3段広い帯曲輪をみる…が、埋め据え型の淘甕や木製の炭桶?、何故か裸電球(割れていない)が帯曲輪下2ー3段目は畑地だったか?。石列が覗く土塁の急斜面の尾根筋にも小曲輪群が並ぶよう!。
上段の土橋状は上記画像(小曲輪群)前に繫がる運河の河口部:瀬戸水門近くの祇園社鳥居が見えるが、瀬戸の集落から津居山城へは運河上流の陸橋(階段)右岸付近から、主郭と第Ⅲ郭間の(特に畑地の様に広い)曲輪段に繋がる登山道?が有るよう?。Ⅲ郭から北面は真下に拡がる日和山海岸と後ヶ島(浦島太郎伝説のある竜宮城)を目前に臨む。
主郭西南端の矢竹に埋まる堀切(東端は帯曲輪遮断の竪堀津居山城(Ⅰ:奈佐日本助の城) 津居山城(Ⅱ:気比の城!?) 画像は順不同です
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