加都南城と加都城(明王寺裏) Ⅱ 朝来市

加都南城と加都城(明王寺裏)Ⅰより続く。ところで!!兵庫県遺跡地図による遺跡地名表(730575)には加都城(和田山町加都字氷り坂)と表記されているが加都地区中央の加都諏訪神社から加都配水池(金梨山採石場跡?への入口部)付近から取付く
           加都南城:最北先端の曲輪
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背後の丘陵上にみる曲輪群加都南城も遺跡地図:加都城(加都字氷り坂)と築城時期・目的も同じ陣城か?。夜久野合戦関連か?…応仁2年(1468)3月但馬・京都丹波(福知山市)国境の夜久野ヶ原に管領:細川勝元方の内藤孫四郎貞徳に付いた
        加都南城:主郭(露岩を北・西面切岸に取込み利用!?
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丹波芦田・足立氏等が遠阪を越え?粟鹿方面から侵攻。山名持豊(宗全)側は竹田城の留守将:太田垣三河守新兵衛の家臣:行木山城守が和田山楽音寺に布陣していた。劣勢にあった山名軍の太田垣新兵衛は細川軍の規模や戦力を見抜いて行動し
           加都南城:主郭背後の土橋付浅い!堀切
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加都城?に布陣していた将兵ら竹田城側の守備に付き太田垣氏に従って布陣したのが加都城(加都字氷り坂)か加都南城(加都諏訪神社側!陣所)だったか?。新兵衛に呼応して出撃し夜久野ヶ原を主戦場として夜久野合戦に細川方の主将:
      加都南城:主曲輪・東腰曲輪の露岩はまるで石垣!!根石で自然の造形確認
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内藤孫四郎等は討死している。加都城が県遺跡地図にある加都字氷り坂の加都城でなく、竹田城を正面に臨む位置にある加都南城(加都諏訪神社南・配水池施設背後の稜上)は竹田城を北方から攻めた丹波の赤井・荻野等の陣城となったか?…。
      加都城(北郭:明王寺背後・南郭:連願寺古墳域)を分ける大堀切(切通し?)
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東西約50m・南北約1.5kmと細長い尾根上の城域は自然地形に近いが露岩を組み込んだ曲輪最南端に土塁・高い切岸加工?…北側の主曲輪間に土橋付き浅い堀切・露岩が目立つ主曲輪東下腰曲輪は自然造形だが石垣積みに見える。
          加都城北郭とは谷を分ける南郭の連郭尾根筋
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下方に5段程小曲輪があり木々の間から正面に竹田城が望める位置もある。隣接する加都城(明王寺背後の北郭・連願寺古墳のある南郭)もまた播磨国境に近く但馬に侵攻する赤松氏の陣城?、天正8年(1580)羽柴秀吉の但馬攻めの際のものか…?。
    加都城(南郭):南最先端の墳頂(土塁曲輪)から東尾根上に曲輪段を連ねる
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大軍勢の駐屯も可能な大規模城郭だが加都には市場が設けられており円山川・R312号線に出る手前の県道136号沿いに加都神社・背後に10基ばかり加都神社裏古墳群がある…が。祠を祀る此の頂部を主郭として円墳のマウンドを利用した曲輪・櫓等・位置的にもベストで要衝や市場の監視・領内監視にも適所と思えるが…
        加都城(南郭:東尾根曲輪群:更に手前の高い切岸下にも3段程)
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城史等一切不詳。古墳マウンドの南郭主曲輪から東へ延びる尾根上に7-8段曲輪を並べ、東面裾を明王寺側に流れ出る東谷・西面は金梨山北尾根先端部分(造林・植林が進められている)から「加都青空公園」側への小谷筋を別ける分岐尾根先Y字状の鞍部から北尾根筋最初の曲輪(場内最大規模:東西25mx南北70m程)
     加都城(北郭:主曲輪中央を食違い空堀土橋で分ける(右は竪堀に落ちる)
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中程には土橋付き空堀を喰い違い土塁で遮断。土塁西端斜面に竪堀が落ちる。北尾根先へ2段ほどの曲輪。西から北へ廻す帯曲輪から切岸高い曲輪2段続き真下に明王寺の屋根が見える。城域を二分する大堀切(切通し)状から猪垣が東段曲輪群
         加都城(明王寺裏先端腰曲輪)
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先端付近へと北曲輪群東斜面を明王寺参道に出る谷筋沿いに延びる。北曲輪群東斜面裾と谷沿い猪垣の間には帯曲輪?というより…北郭主曲輪に続く段曲輪下部に至る"犬走り"があり、通路先端は土塁?で遮断されL字状に90度折れ竪堀で落ちる!!。
       主郭沿い帯曲輪(?犬走り?)は明王寺背後の腰曲輪手前(中央付近)で竪堀…
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土塁?先崩壊は同規模竪堀状。竪堀状を上部に出ると高い切岸下の明王寺屋根を臨む広い先端曲輪。北・西面ともに激急斜面だが加都集落に近い西面に竪堀が2ー3条。下山は帯曲輪?(犬走り)北端のL字状竪堀から猪垣フエンス沿いに明王寺への参道に出た。
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