楽々前城 Ⅱ  豊岡市日高町道場

【城史】楽々前城(Ⅰ)は山名氏重臣:垣屋隆国が応永年間(1394ー1428年)築き子の満成が継いだという(因幡垣屋系図)・垣屋氏出自は詳らかでない…が垣屋重教が山名氏に従い但馬へ入封したのが始まりとされ初め奈佐亀ヶ崎城を居城とした。
        二ノ丸西面に間髪(かんはつ)を入れず展開する畝状大竪堀群
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重教の子:弾正時忠は明徳の乱(明徳2年 1391)京都"二条大宮の合戦"で山名時熙を助けて討死した時忠の子が垣屋隆国。長享2年(1488)7月山名政豊の播磨総撤退以後:守護職山名政豊と守護代垣屋氏が対立・9月には播磨侵攻を主張する垣屋続成・
        二ノ丸から本丸への西北斜面に石積・石垣曲輪群が多い
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遠忠らを筆頭に26人の国人領主が政豊を廃し備後守護山名俊豊(政豊の長男)を擁立しようと政豊・田公肥後守が立籠もる木崎城(豊岡市)を包囲「蔭涼軒日録」。其の後も垣屋氏は楽々前城を本拠として山名氏との抗争は再燃する。永正2年(1505)6月
       本丸北に張出す曲輪を取り囲む幅広い帯曲輪
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将軍足利義澄が致豊と続成に和解勧告をし、永正九年(1512)には弟誠豊に守護職を譲渡し続成は鶴ヶ峰城を築城して楽々前城から移る「因幡垣屋系図」。永禄2年(1559)8月には織田信長命を受けた羽柴秀吉・坂井右近(政尚)が生野銀山を接収し
        四方を土塁で囲まれる二ノ丸?主要郭
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此隅山城・楽々前城(垣屋城)など18城を攻略するが其の後の楽々前城の城史は不明。天正6年(1578)毛利方の垣屋豊続・古志重信・宇山久信らは、織田方の宵田城主(垣屋孝続)らと戦い一時的には勝利した。楽々前城主垣屋光成・恒総の動向は
        本丸南面は一本帯曲輪を廻すだけ:中程に投石用か?石塁がある!
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不詳だが此の合戦後織田方に与し秀吉傘下に入ったものと思われ、天正8年(1580)6月秀吉の因幡鳥取城攻めに際し光成を岩経城(鳥取県岩美町)に配置・鳥取城攻略後の知行割に光成は浦富桐山城(鳥取県岩美町)城主になっている。
「豊岡市の城郭集成 (山名氏城跡保存会等発行)」参考
       本丸の東曲輪からのY字状竪堀を隔て北面の幅広帯曲輪へ
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【お詫び】兵庫丹波以外の城趾等の多くを記載している「別冊丹波霧の里」HPサイトが2025年7月以降閉鎖され、相互Webサイト”kirinosato…”別冊丹波霧の里へのリンク切れにご迷惑・ご不便おかけします。記事内容の”付け替え…等”思案中…

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