「前山の手向塚」外伝1: 久下氏の盛衰 丹波市

前山の手向塚」の話は丹波市南端部:山南町の久下氏の玉巻城の落城:最後の城主:久下重治の奥方が、二人の乳児:千丸(嫡男𠮷重は後:何代か続いた様?)と次男:彦作(正治)は後大阪城夏の陣に討死する…が)を連れ、丹波市北端部の市島町の前山(さきやま)壇の地に落ち延び、奥方が河原石を集め慰霊の塚を築いた話…   
      玉巻城(久下城):曲輪を分ける堀切
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外伝1:には源頼朝と足利尊氏の挙兵に際し二度共に「一番」に駆けつけた一番旗:久下氏の盛衰…を。外伝2:では”久下重治の夫人”が落ち延びた前山地区(市島町上竹田)の”壇”には在地領主?の居館があったようだが…?丹波志の所在:宿や地続きのも現地図に確認できず地名の段宿を充てた…段宿城砦群がある。
        猪鹿除ゲート直ぐに現れる段宿城下段曲輪の切岸と堀切土塁
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鴨神社背後から愛宕社にかけての段宿城(下段)・十方寺砦から尾根続き三角点峰(山名不詳)の段宿城(上段)に別けてみるが…此の十方寺砦が第一次黒井城合戦の明智軍付城群のなかでも、八上:波多野氏が陣した砦か!?。「前山の手向塚」外伝2:…に殆ど知られることもない第一次黒井城攻略の陣城群として紹介したいが…?、
      段宿城(上城)最高所の西下段曲輪・切岸下に堅堀・右端に土塁虎口?
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来月末(2025.6)で一方の収容サーバーが廃止となるため、データ移送とリンク付け・データーの廃棄・収容替え復帰…等々でHP・ブログ共に日々更新する余裕がなく…(;_;) リンク切れ。リンク先不明でご迷惑をおかけしますがご容赦を…
         2014年豪雨では土砂流に埋まった十万寺と砂防ダム
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外伝1:丹波栗作郷の領主:久下氏の先祖”久下時重”の顕彰碑”東竹院殿”菩提の五輪塔がJR福知山線谷川駅の西約450m程の長慶院(久下氏一族代々の菩提所)に祀られている。背後の八幡山には久下氏16代の居城玉巻城(久下城)がある。足利尊氏が2度:京を逐われ二度ともに丹波石龕寺に逃れた。
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一ノ谷の合戦などに戦功あり、源頼朝の旗上げに際して一族郎党を引き連れて真っ先に馳せ参じ伊豆国・三河国・丹波国栗作号郷を与えられ、家紋や馬標に「一番」の旗指物や紋を頼朝から許された久下氏は、足利尊氏の篠八幡宮での倒幕の挙兵の際も中澤・山内・酒井・蘆田氏らとともに一番に篠へ馳せ参じ以後、
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久下氏は足利氏に仕えて活躍・二度目に丹波に逃れてきた尊氏・義詮父子を丹波武士らとともに匿い、再起を援けたことは有名な逸話で、嫡男義詮は:後に初代丹波国守護となる仁木頼章(建武3年~)や久下氏に護られ尊氏が九州から上京するまで石龕寺城に逗留。久下氏が細川氏清の命によりやっと!山名時氏の下(観応1-2年)
      足利義詮が2ヶ月余り留まった石龕寺奥の院の将軍屋敷跡
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頼直(時重の次男:池ノ谷主計) が丹波国守護代を務めたのは戦乱期に1年だけ…。勢力を保った久下氏も畠山氏の内紛( 明応の政変)に将軍:義材(義植)に付き河内に進軍するが大敗…。勢力を失い・所領は周辺国人によって蚕食され・戦国末期:荻野・赤井の配下に属した小勢力に墜ち再興成らず…詳細は玉巻城(久下城)に譲る。
       池ノ谷主計屋敷の主郭側の高い切岸と空堀・上り土塁虎口
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玉巻城(久下城)の落城は”明智光秀の第二次黒井城攻略の際:北播磨国境の丹波国南口防衛の最前線にあって城主久下重治は援軍の氷上城(霧山城)の波多野宗貞?と玉巻城に立て籠り(西波多野の逸話と伝承が混在)、播磨から侵攻してきた丹羽長秀軍の総攻撃により奮戦したが天正7年(1579)5月に落城し久下一門は城と運命を共にした。手向塚の由緒は:落城寸前の城主と生き別れる夫人・幼児との逃避行 
        加茂神社:背後の段宿城(下段:愛宕城)…壇・宿の位置は神社の直ぐ北方だが?
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