定山と状山(城山) Ⅱ:定山(番守寺城)  丹波市

定山と状山Ⅰ近接する二城砦に記したがR175号「野坂」派出所前交差点から正面の丘陵最高所に梶城山(仮称)城、東隣の土砂採取で壊滅状態と見てとれる番守寺山城の東裾はR175号が越える新田坂。急勾配でもない上り坂の道路西端に大・小二つの池が並ぶ。上部の大きな池は番守寺山城跡全域の土砂採取で壊滅状態だが、
        2010年頃のR175号"新田坂”と土砂採取が進む番守寺城跡
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以前は土砂が流れ込まず綺麗な水面にコウホネを見掛けたが、黒井川のオグラコウホネともに絶滅した。下部の池南の土堤道から丘陵部に向かう入口に”日蓮宗 吉祥山番守寺”参道の石段下に石門柱が立つ。昭和末(1980年代)に遠縁の叔母の法事に伺った際は無住だが北播磨側の寺院から僧が来られていたので、
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番守寺は播州寺のことか?とズッと思っていたが:番守(かもり)寺で鎌倉時代(1300年代)摂津国有馬郡(現:西宮市名来町)に建立された。宝暦9年(1759:江戸時代中期)下総国の日久上人が縁故で名来庄で、里人の請願により雨乞の祈祷をした縁で中興となり”三十神(法華経を守護する神)を祀ってった”が寺名。
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西宮市の名来から丹波市野坂へ寺を遷移されたのは明治22年(1889)[山南町誌では明治25年!?]。雨乞いの神でもある天女像を受取りにいき、三田市/篠山市国境の日出坂まで戻ってきた際「どれほど”ありがたい”仏さんか?チョッと拝んでみよう」…
      定山出土の箱式石棺が移されていた番守寺観音堂?裏手から両城に向かう…
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さて帰ろうとするが腰が抜けて立ち上がれない…とか・急に像が重くなり運べなくなった…等:同様の昔話が三田市や篠山市の民話/昔話に載せてあったような…!?。日出坂の三田市側 に藍岡山城の出曲輪か?国境の砦:丸山砦があり模造櫓が建ち小公園化した山上に祀られる弁天社も元は篠山市側坂下にあった伝承の
           三田市側の藍丸山砦全景(日出坂から)
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水神様弁天社が明治28年R175号道路工事により移転されたものか?、番守寺移転因果との関連有無は知らない…。番守寺城(定山)へは新田坂最高地点から空堀?傍の地蔵堂へ参道が通じており、南方は正面に北播磨国境の加古川出合い・イタリ山を望む丹波市側最先端の砦。R175号沿い北斜面に沿い小曲輪群が並んでいた様子?。
        ”組み合せ箱式石棺出土”の最高地点?残し消滅した番守寺城
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定山と状山Ⅰ・此のページ初に記した新田坂は江戸中期頃・新田開発に地元民が利用した道。番守寺は明治22年西宮市から移転された頃、一般に利用されるようになったもので、それまでは県道86号船戸橋(状山:梶城山城(仮称)の尾根南先端から加古川を渉らずとも・番守寺城北裾をR175号へ高低差のない道を利用して
        状山(梶城山城)山上より足元に加古川・正面に岩尾城を望む
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草部へ抜ける延喜式旧山陰道や加古川沿い氷上回廊が通じていたものか?。このことからも船戸橋ー新田坂に至る低山尾根上の二城は、岩尾城東方の牧山川沿い岩尾城下86号の和田の市場や北和田から北上する532号やR175号に109号が合流する。岩尾城出郭としての要所監視に当ったものか?。定山ー状山の北山麓を
 梶土地改良史記念碑と石樋:中央の”至山城”麓で篠山川と合流し加古川となる
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R175号付近から船戸橋・加古川右岸を南下流へと溝谷が流れる。岩尾城主:和田斉頼による治水事業の跡か?。条里制遺構が遺る梶耕地に石堰の一部や「梶土地改良史記念碑」が建ち、其の後も官営10年:柏原藩主織田信勝により梶耕地の導水開通・明治38年村長:野添氏により佐治川右岸の開墾は続いた。次回は状山(城山城)へ






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