定山と状山(城山) Ⅲ:梶城山城 丹波市
番守寺城へはR175号新田坂上部北の駐車スペースか、南の土取場入口付近から尾根東端頂部に向かう石段参道が、空堀傍の地蔵堂(地蔵堂は土取場運搬車輛出入口の傍に移設されている)。番守寺からも城山城(仮称)との中央尾根筋の広い曲輪(兵溜まり?か屋敷跡?)へ土橋付堀切が延びている。
城山城・番守寺山城に挟まれた中央尾根の土橋付堀切!東側は最近?間伐用か作業道もあるが曲輪は林業用ではなさそう?。其の東下部の大堀切状を越えると直ぐ番守寺城跡土取場から、正面の主尾根筋の曲輪に合流・北側端は大土塁か曲輪?か未確認だが共に城山城へ埋れかけ?浅い堀切状を越える。高くはないが急斜面頂部は大型円墳?。
番守寺中央尾根上の二曲輪は兵溜? 右手下方に番守寺山城跡回り込む北斜面に竪堀が一条。尾根筋に4-5段の平坦段を3条ほど堀切が分けるが曲輪・堀ともに石材を見ない…が、城域の西面は高い流紋岩の柱状節理の露呈が船戸橋からも確認出来、公用?土取場も崩壊・放棄され薮化で一部を残し面影なし。
梶城山城西面は柱状節理の断崖状を加古川に落とす要害
土取?入口の供養碑は遺跡地図にある2基の円墳に関係あるものか?。番守寺山城からは土取で昭和44年(1969)組合式箱式石棺が出土し番守寺裏に移管?されている(城山 Ⅱの画像…が、梶城山城(仮称)側も城趾としての認識はされていないよう?だが円墳・方墳が並ぶ”ニシノカジ古墳群”としては記録されている!。
梶城山城円墳・方形墳に周溝じゃなく片側だけの大規模な溝?は堀切!梶城山城は県の遺跡分布地図に(南北尾根上に2基の円墳に挟まれるように2基の方墳と南下部にも小円墳が有るよう?だが、北端円墳は北面に竪堀が、南端円墳の南斜面下部には造出し?(岩尾城等西方を望む監視か食糧等倉庫の曲輪?)平坦段。県道の船戸橋も近く・加古川舟運や渡舟・川沿い要衝監視か!?
梶城山城円墳下部の堀切状?上で少し回り込むと上り土塁道?南下方の傾斜面(宅地上部)にも2-4ヶ所に曲輪(遺構分布図には2ヶ所ほど古墳?)がある。円墳・方墳間を東西に3本?堀切で分けるが、南北に壕はなく周溝ではないが発掘調査記録等を知らず壕跡等からの祭祀埋葬関連遺物出土は未確認。
梶城山城堀切状の上部の上り土塁道を回り込む北面に長い竪堀が一条…番守寺山城側は日蓮宗吉祥山番守寺背後の境内内?に組合式箱式石棺があるが、梶城山城は五輪山仏祥寺背後にあり、南裾に五輪山佛祥寺という小さな堂が建つ。本尊として一石五輪塔と菩薩像が祀られている
南側の円墳も周溝はなく南北に濠はなく南面は緩斜面元は五輪荘駐車道境にポツンと小さな3基の石塔が祀られていた。蛇山岩尾城第4代城主谷出羽守の婿養子:和田日向守齊頼(ひとより)が永正10年(1513)養父:谷兵部介を刺殺し岩尾城主となるが養母を手にかける事は出来ず
南端の円墳南斜面下・南西端の”造出し状”平坦地は武器・食糧等の倉庫跡か?家臣に命ずるには忠臣を失うことになるとして此処:状山に庵を建て幽閉・養母は庵に籠り、夫の冥福を祈り続け・病にかかり亡くなった。高野山大師教会の五輪山仏祥寺の堂内から「無縁の2基の五輪塔(谷兵部介夫婦)と夫人供養!碑?の菩薩像を拝礼できる。 定山と状山Ⅰ 定山と状山Ⅱ 番守寺山城・梶城山城
城山城・番守寺山城に挟まれた中央尾根の土橋付堀切!東側は最近?間伐用か作業道もあるが曲輪は林業用ではなさそう?。其の東下部の大堀切状を越えると直ぐ番守寺城跡土取場から、正面の主尾根筋の曲輪に合流・北側端は大土塁か曲輪?か未確認だが共に城山城へ埋れかけ?浅い堀切状を越える。高くはないが急斜面頂部は大型円墳?。
番守寺中央尾根上の二曲輪は兵溜? 右手下方に番守寺山城跡回り込む北斜面に竪堀が一条。尾根筋に4-5段の平坦段を3条ほど堀切が分けるが曲輪・堀ともに石材を見ない…が、城域の西面は高い流紋岩の柱状節理の露呈が船戸橋からも確認出来、公用?土取場も崩壊・放棄され薮化で一部を残し面影なし。
梶城山城西面は柱状節理の断崖状を加古川に落とす要害
土取?入口の供養碑は遺跡地図にある2基の円墳に関係あるものか?。番守寺山城からは土取で昭和44年(1969)組合式箱式石棺が出土し番守寺裏に移管?されている(城山 Ⅱの画像…が、梶城山城(仮称)側も城趾としての認識はされていないよう?だが円墳・方墳が並ぶ”ニシノカジ古墳群”としては記録されている!。
梶城山城円墳・方形墳に周溝じゃなく片側だけの大規模な溝?は堀切!梶城山城は県の遺跡分布地図に(南北尾根上に2基の円墳に挟まれるように2基の方墳と南下部にも小円墳が有るよう?だが、北端円墳は北面に竪堀が、南端円墳の南斜面下部には造出し?(岩尾城等西方を望む監視か食糧等倉庫の曲輪?)平坦段。県道の船戸橋も近く・加古川舟運や渡舟・川沿い要衝監視か!?
梶城山城円墳下部の堀切状?上で少し回り込むと上り土塁道?南下方の傾斜面(宅地上部)にも2-4ヶ所に曲輪(遺構分布図には2ヶ所ほど古墳?)がある。円墳・方墳間を東西に3本?堀切で分けるが、南北に壕はなく周溝ではないが発掘調査記録等を知らず壕跡等からの祭祀埋葬関連遺物出土は未確認。
梶城山城堀切状の上部の上り土塁道を回り込む北面に長い竪堀が一条…番守寺山城側は日蓮宗吉祥山番守寺背後の境内内?に組合式箱式石棺があるが、梶城山城は五輪山仏祥寺背後にあり、南裾に五輪山佛祥寺という小さな堂が建つ。本尊として一石五輪塔と菩薩像が祀られている
南側の円墳も周溝はなく南北に濠はなく南面は緩斜面元は五輪荘駐車道境にポツンと小さな3基の石塔が祀られていた。蛇山岩尾城第4代城主谷出羽守の婿養子:和田日向守齊頼(ひとより)が永正10年(1513)養父:谷兵部介を刺殺し岩尾城主となるが養母を手にかける事は出来ず
南端の円墳南斜面下・南西端の”造出し状”平坦地は武器・食糧等の倉庫跡か?家臣に命ずるには忠臣を失うことになるとして此処:状山に庵を建て幽閉・養母は庵に籠り、夫の冥福を祈り続け・病にかかり亡くなった。高野山大師教会の五輪山仏祥寺の堂内から「無縁の2基の五輪塔(谷兵部介夫婦)と夫人供養!碑?の菩薩像を拝礼できる。 定山と状山Ⅰ 定山と状山Ⅱ 番守寺山城・梶城山城
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