穴太城 亀岡市
南側の湯の花温泉街を抜け出たところ、佐伯の”グリーンハイツxx”看板から神蔵寺(西国薬師霊場)へと赤い幟を目印に参詣道を進みます。稗田野町佐伯地区南方の丘陵丁塚山(高熊山)から西の高岳城(大石大和守古城)へと高低差の少ない稜線が目前に迫る。登山者が訪れることはないだろうが?、神蔵寺から背後の朝日山へ
神蔵寺本堂前から高岳城跡を望む登った際:雑木藪のなかに”京都…城跡探索会?”だったかの表札が落ちているのを見つけた(2005年)。未だ登山中心…登山の度に出合う山城跡に興味を持ち始めた頃、城遺構・仕様・特徴等知らないまま・後に再訪したが、地理的には尾根を下って穴太城に通じており丹波守護代:内藤氏方の城だったと思えるし、
穴太・小幡神社付近から丁塚山臨戦的な付城として牛松山城・法貴山城に関連した兵の駐屯地か?。在地領主大石氏は明智光秀に従い天正10年(1582)山崎の合戦に親子共に討死。戻って神蔵寺参道前には大正池から高岳城の山裾を廻り込んで丁塚山の南尾根を林道が越える辺りには?、高座(たかくら)と呼ばれ岩窟があり、出口王仁三郎の修行地として
法貴山城主郭郭を囲むU字状土塁大本教の霊場の一つとなっている…(大本教の二つの聖地<綾部:松梅苑・亀岡:天恩郷>と教祖・聖師(王仁三郎)・尊師を祀る神域の奥津城(田野城へ向かう途中の天王平)や本部:天恩郷・亀岡城については割愛)…が高座山が転訛した高熊山が地図上の丁塚山・高岳城登山口駐車場の北に金剛寺(応挙寺)がある。
亀岡城天守台前:宗教弾圧による首欠の伊都能売観音坐像?穴太出身の丸山応挙(9歳)が仏弟子として入門した寺。穴太生まれの王仁三郎(上田主水)は円山応挙七世の孫という…西国33ヶ所霊場第21番札所の菩提山穴太寺に程近い穴太城は小幡神社(式内社)の西:丁塚山から南へ延びる尾根続きの東北へ突き出す細長い丘陵突端部に位置し、犬飼川(長谷川)の流れに沿った長谷山の
柿花城(牛松山城)主郭部西の片堀切?腰曲輪?から
低丘陵にあり小さな三つばかりの頂部に曲輪群を配して穴穂城・長谷山堡とも呼ばれる。城史は不明?だが天文2年(1533)丹波守護:細川晴元が此処”長谷山の合戦!?”に於ける田所藤左衛門の忠節に対し感状を与えている。丹波守護代が上原氏の頃か内藤氏に変わった頃には既に城砦があったものか?。
高岳城・東郭部から4~5段の帯曲輪が西へ延びる長谷山合戦は内藤氏が波多野氏に対抗した折の事か?。内藤氏自体も細川澄元に付いたり高国方に走ったり、晴元に背いて波多野氏や三好長慶に付いている。史実として信用できない軍記:籾井家日記には天文2年(1533)晴国方の波多野氏が晴元の部将赤井忠家を穂壷城に攻め、晴元から救援派遣された赤沢景盛兄弟が戦死?…同時期:赤沢氏の居城とされるが留守将?田所氏に任せての長谷山合戦だったか?。
穴太城・東郭の土塁付曲輪管領・守護が消滅した後も内藤氏の領地支配は持続しています。穴太城は永禄8年(1565)備前守宗勝の敗死等で衰微するなか・その臣:赤沢加賀守義政の居城したとされる。京都丹波の山城(平山城含み)には何故か?天守台や其の祖形といわれる遺構が多いことに驚きと疑問を感じるのですが?。小幡神社から登り始めて直ぐ土塁を廻した三段ほどの、居住性の強い広い曲輪遺構が続いて土橋を伴う
穴太城・東郭の土橋付大堀切大きな堀切を越える。尾根筋には3~4程の小さな曲輪を乗せ東面を広く長い帯曲輪が繋いでいます。曲輪群との城域を分ける堀切を越えるがこの2ブロック目の曲輪群南端付近には高さ1mばかり、円墳のマウンドを思わせる台状の高台があり石仏が一基祀られている。本ノ丸や天守台にしては低い段差・枡形等を駆使した虎口等の防備施設らしいものはなく手薄です。
穴太城の天守台跡?!と帯曲輪の境目!に石仏が一基更に緩やかな尾根は南側にある3ブロック目の曲輪群へ続くが倒木が多く荒れて段々と遺構の状態さえ不確かになり、小さな曲輪が階段状に並んでいるだけのようなので此処で引き返す。石積みの階段が残り天守台もあったという本郭部は、この縄張り遺構が薄れていく?見残した南曲輪群の最南端・最高所に在ったのでしょうか?(2005.5.27)
神蔵寺本堂前から高岳城跡を望む登った際:雑木藪のなかに”京都…城跡探索会?”だったかの表札が落ちているのを見つけた(2005年)。未だ登山中心…登山の度に出合う山城跡に興味を持ち始めた頃、城遺構・仕様・特徴等知らないまま・後に再訪したが、地理的には尾根を下って穴太城に通じており丹波守護代:内藤氏方の城だったと思えるし、
穴太・小幡神社付近から丁塚山臨戦的な付城として牛松山城・法貴山城に関連した兵の駐屯地か?。在地領主大石氏は明智光秀に従い天正10年(1582)山崎の合戦に親子共に討死。戻って神蔵寺参道前には大正池から高岳城の山裾を廻り込んで丁塚山の南尾根を林道が越える辺りには?、高座(たかくら)と呼ばれ岩窟があり、出口王仁三郎の修行地として
法貴山城主郭郭を囲むU字状土塁大本教の霊場の一つとなっている…(大本教の二つの聖地<綾部:松梅苑・亀岡:天恩郷>と教祖・聖師(王仁三郎)・尊師を祀る神域の奥津城(田野城へ向かう途中の天王平)や本部:天恩郷・亀岡城については割愛)…が高座山が転訛した高熊山が地図上の丁塚山・高岳城登山口駐車場の北に金剛寺(応挙寺)がある。
亀岡城天守台前:宗教弾圧による首欠の伊都能売観音坐像?穴太出身の丸山応挙(9歳)が仏弟子として入門した寺。穴太生まれの王仁三郎(上田主水)は円山応挙七世の孫という…西国33ヶ所霊場第21番札所の菩提山穴太寺に程近い穴太城は小幡神社(式内社)の西:丁塚山から南へ延びる尾根続きの東北へ突き出す細長い丘陵突端部に位置し、犬飼川(長谷川)の流れに沿った長谷山の
柿花城(牛松山城)主郭部西の片堀切?腰曲輪?から
低丘陵にあり小さな三つばかりの頂部に曲輪群を配して穴穂城・長谷山堡とも呼ばれる。城史は不明?だが天文2年(1533)丹波守護:細川晴元が此処”長谷山の合戦!?”に於ける田所藤左衛門の忠節に対し感状を与えている。丹波守護代が上原氏の頃か内藤氏に変わった頃には既に城砦があったものか?。
高岳城・東郭部から4~5段の帯曲輪が西へ延びる長谷山合戦は内藤氏が波多野氏に対抗した折の事か?。内藤氏自体も細川澄元に付いたり高国方に走ったり、晴元に背いて波多野氏や三好長慶に付いている。史実として信用できない軍記:籾井家日記には天文2年(1533)晴国方の波多野氏が晴元の部将赤井忠家を穂壷城に攻め、晴元から救援派遣された赤沢景盛兄弟が戦死?…同時期:赤沢氏の居城とされるが留守将?田所氏に任せての長谷山合戦だったか?。
穴太城・東郭の土塁付曲輪管領・守護が消滅した後も内藤氏の領地支配は持続しています。穴太城は永禄8年(1565)備前守宗勝の敗死等で衰微するなか・その臣:赤沢加賀守義政の居城したとされる。京都丹波の山城(平山城含み)には何故か?天守台や其の祖形といわれる遺構が多いことに驚きと疑問を感じるのですが?。小幡神社から登り始めて直ぐ土塁を廻した三段ほどの、居住性の強い広い曲輪遺構が続いて土橋を伴う
穴太城・東郭の土橋付大堀切大きな堀切を越える。尾根筋には3~4程の小さな曲輪を乗せ東面を広く長い帯曲輪が繋いでいます。曲輪群との城域を分ける堀切を越えるがこの2ブロック目の曲輪群南端付近には高さ1mばかり、円墳のマウンドを思わせる台状の高台があり石仏が一基祀られている。本ノ丸や天守台にしては低い段差・枡形等を駆使した虎口等の防備施設らしいものはなく手薄です。
穴太城の天守台跡?!と帯曲輪の境目!に石仏が一基更に緩やかな尾根は南側にある3ブロック目の曲輪群へ続くが倒木が多く荒れて段々と遺構の状態さえ不確かになり、小さな曲輪が階段状に並んでいるだけのようなので此処で引き返す。石積みの階段が残り天守台もあったという本郭部は、この縄張り遺構が薄れていく?見残した南曲輪群の最南端・最高所に在ったのでしょうか?(2005.5.27)
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