猫間中納言と「母子草」 三田市
県道49号(三田ー篠山線)は有馬富士-花山院を抜け花の寺:永澤寺(ようたくじ)から篠山に抜ける三国ヶ嶽近くの美濃坂峠は小川芋銭が大正15年院展に発表した「丹波霧海」は此処で描いたとされているが…!)この途中:丹波茶所・味間茶と並ぶ、母子(もうし)茶の里 母子集落があり母子茶は高級茶としても有名。第34代:舒明天皇
美濃坂峠~三国ヶ岳へ登山口(母子の茶畑)「在位:推古元(593)ー舒明13(641)」が有間(有馬)温泉へ 湯治に来られたとき、帝(みかど)は北の方に聳える山の名をお尋ねになり「羽束山と申し・山上に観音様がお祀りしてあります」と従者の一人が答えます。帝は猫間権中納言定頼(藤原光隆)を使いとして羽束山の観音さまへ代参されますと、忽ち:帝の病気が治ったので
羽束三山(さん志よう山・羽束山・甚五郎山)帝は感激され:羽束の里と近在の土地を中納言に所領として与え、中納言もこの土地が気に入って鷹原(現:母子地区)に住むことにした。【羽束山は香下寺城】ある春のこと中納言は誘われるまま野歩きの途中・道端に咲く花の中に黄色い小粒の花が目に留まる。薄緑色の葉・茎・黄色い花を株ごと帝に献上しました。
羽束山城主郭部・観音堂「なんと可憐な花ぞ…」帝は大層お喜びになり以来、中納言は毎年献上され「奉公草」とも呼ばれるようになった。その後:中納言は世を去り:残された奥方と愛児の嘆き悲しみに家臣や里人たちは母子を慰め励ました。母子はやがて巡って来た春の風に誘われ・父の歩いた野辺を歩き、悲しみの心は花々を見て慰められます。
竜王山から羽束山と中央左・宝塚富士(たかつこ山)
その時奥方は黄色い奉公草が咲いてるのを見て、幾株かを持ち帰り・一株を仏前に供え、あとの株を使者に持たせて帝に献上した。帝は奉公草を見て、 ありし日の中納言母子のことを懐かしく思い出され…”奉公草を「母子草(春の七草の一)」とも言われるようになり”此の土地(鷹原)を母子(もうし)」と呼ばれるようになった…と伝えます。(三田の民話:三田市教育委員会を参照)
千刈水源池の北部・普明寺橋(中央)から羽束山雑記:舒明天皇は在位13年49歳で崩御され其の際弔辞(?)をのべられたのが(幼名:葛城皇子・中大兄皇子)(後の第38代:天智天皇)。世襲による皇位継承は男系男子に限る…とする皇室典範の改正が見直されているが…舒明天皇前後の天皇:推古時代:第33代推古天皇は歴代天皇最初の女帝・第35代皇極天皇も女帝。
露岩(ジョウノ鼻)の名からも羽束山は山城
推古天皇は在位36年と長寿を保ち皇太子:聖徳太子の先死により皇嗣問題が残った…飛鳥(白鳳)時代:第37代斉明天皇(皇極天皇の重祚<再即位>)・第41代持統天皇・奈良(天平)時代:第43代元明天皇・第44代元正天皇・第46代孝謙天皇・第48代称(偁)徳天皇(孝謙天皇の重祚)…。鎌倉幕府の滅亡に大きく貢献し
足利尊氏父子(丹波市:石龕寺もみじまつり)当初後醍醐天皇(第96代:吉野南朝)に従った足利高氏は後醍醐天皇の諱(本名:高治)の一字を請け尊氏を名乗る…が建武の新政も武士層の不満に足利尊氏の離叛…等失敗により、光明天皇(京都北朝第2代)を擁立し南朝二つの朝廷が約60年間並立する南北朝時代を経て江戸時代初期:第109代明正天皇・第117代後桜町天皇(第115代
一ノ谷・壇ノ浦へ急ぐ義経(篠山街道筋)の従者:鷲尾三郎.伊勢三郎・那須与一を祀る桜町天皇の第二皇女)と女帝に引継がれ (新歴代天皇大鑑:参照) 尚:平安時代末期(第81代安徳天皇が文治元2年(1185)一ノ谷~屋島壇之浦:源平最後の決戦に敗れ入水された在位5年・崩御8歳)や、鎌倉時代初期(第85代仲恭天皇も承久の乱に…崩御17歳:幕府により廃位させられた幼帝?もいる。世襲による皇位継承は男系男子に限る…とするが嫡男がいなければ…?。日本国憲法に云う天皇は日本国・日本国民統合の象徴として、多くの国民に切望され支持されるかたなら女帝でも…。
美濃坂峠~三国ヶ岳へ登山口(母子の茶畑)「在位:推古元(593)ー舒明13(641)」が有間(有馬)温泉へ 湯治に来られたとき、帝(みかど)は北の方に聳える山の名をお尋ねになり「羽束山と申し・山上に観音様がお祀りしてあります」と従者の一人が答えます。帝は猫間権中納言定頼(藤原光隆)を使いとして羽束山の観音さまへ代参されますと、忽ち:帝の病気が治ったので
羽束三山(さん志よう山・羽束山・甚五郎山)帝は感激され:羽束の里と近在の土地を中納言に所領として与え、中納言もこの土地が気に入って鷹原(現:母子地区)に住むことにした。【羽束山は香下寺城】ある春のこと中納言は誘われるまま野歩きの途中・道端に咲く花の中に黄色い小粒の花が目に留まる。薄緑色の葉・茎・黄色い花を株ごと帝に献上しました。
羽束山城主郭部・観音堂「なんと可憐な花ぞ…」帝は大層お喜びになり以来、中納言は毎年献上され「奉公草」とも呼ばれるようになった。その後:中納言は世を去り:残された奥方と愛児の嘆き悲しみに家臣や里人たちは母子を慰め励ました。母子はやがて巡って来た春の風に誘われ・父の歩いた野辺を歩き、悲しみの心は花々を見て慰められます。
竜王山から羽束山と中央左・宝塚富士(たかつこ山)
その時奥方は黄色い奉公草が咲いてるのを見て、幾株かを持ち帰り・一株を仏前に供え、あとの株を使者に持たせて帝に献上した。帝は奉公草を見て、 ありし日の中納言母子のことを懐かしく思い出され…”奉公草を「母子草(春の七草の一)」とも言われるようになり”此の土地(鷹原)を母子(もうし)」と呼ばれるようになった…と伝えます。(三田の民話:三田市教育委員会を参照)
千刈水源池の北部・普明寺橋(中央)から羽束山雑記:舒明天皇は在位13年49歳で崩御され其の際弔辞(?)をのべられたのが(幼名:葛城皇子・中大兄皇子)(後の第38代:天智天皇)。世襲による皇位継承は男系男子に限る…とする皇室典範の改正が見直されているが…舒明天皇前後の天皇:推古時代:第33代推古天皇は歴代天皇最初の女帝・第35代皇極天皇も女帝。
露岩(ジョウノ鼻)の名からも羽束山は山城
推古天皇は在位36年と長寿を保ち皇太子:聖徳太子の先死により皇嗣問題が残った…飛鳥(白鳳)時代:第37代斉明天皇(皇極天皇の重祚<再即位>)・第41代持統天皇・奈良(天平)時代:第43代元明天皇・第44代元正天皇・第46代孝謙天皇・第48代称(偁)徳天皇(孝謙天皇の重祚)…。鎌倉幕府の滅亡に大きく貢献し
足利尊氏父子(丹波市:石龕寺もみじまつり)当初後醍醐天皇(第96代:吉野南朝)に従った足利高氏は後醍醐天皇の諱(本名:高治)の一字を請け尊氏を名乗る…が建武の新政も武士層の不満に足利尊氏の離叛…等失敗により、光明天皇(京都北朝第2代)を擁立し南朝二つの朝廷が約60年間並立する南北朝時代を経て江戸時代初期:第109代明正天皇・第117代後桜町天皇(第115代
一ノ谷・壇ノ浦へ急ぐ義経(篠山街道筋)の従者:鷲尾三郎.伊勢三郎・那須与一を祀る桜町天皇の第二皇女)と女帝に引継がれ (新歴代天皇大鑑:参照) 尚:平安時代末期(第81代安徳天皇が文治元2年(1185)一ノ谷~屋島壇之浦:源平最後の決戦に敗れ入水された在位5年・崩御8歳)や、鎌倉時代初期(第85代仲恭天皇も承久の乱に…崩御17歳:幕府により廃位させられた幼帝?もいる。世襲による皇位継承は男系男子に限る…とするが嫡男がいなければ…?。日本国憲法に云う天皇は日本国・日本国民統合の象徴として、多くの国民に切望され支持されるかたなら女帝でも…。

この記事へのコメント