四方田政孝と四方田政実(Ⅰ) 丹波市柏原町
慶長3年(1598)6月36000石で伊勢:安濃津城主織田上野介信包を藩祖とする柏原藩織田家:前期三代(信包・信則・信勝)は北中の成徳寺・後期織田家は元禄8年(1695)大和宇陀から移封の織田信休以後九代歴代藩主は東奥徳源寺(廃寺)墓所に祀られ…廟所の南に栢高野球グラウンドがあり東奥・見長城・東奥集落奥に延びる林道からは
廃寺・徳源寺山門と土塀東奥城(八幡山城や譲葉山諸城砦群への兵糧物資中継所だったか?・大安寺跡から譲葉山(山頂部東西に織豊系付城・譲葉山城…がある)への登山ルートがあり、グラウンド拡張工事等で消滅?したが四方田政孝の墓(四方田塚)があったといい、寺も廃寺となった徳源寺だったとも…柏原藩織田家陣屋一帯の北丘陵:入船山に
八幡神社・背後の尾根筋に明智勢本陣(八幡山城?)140m・尾根続き高八山城330mは高見山城”赤井(五郎)忠家”の砦だった?。未だ不詳の加伊原新城は八上城包囲網が完遂した後:金山城を下って現:柏原八幡社にあった祭祀の祠や赤井砦を焼き・背後に築いた八幡城か?、或いは明智の将:妻木主計の石負砦=石生西河原城が
譲葉山西郭:空堀側から折れを意識した曲輪北東面加伊原新城ではないか?…。圧倒的勢力の侵攻に本陣を山上に築く要なく、本拠城監視は譲葉山諸城や向山連山の四の山砦もある。天正3年丹波の地にあって・丹波攻め明智光秀の家臣として「丹波攻略」に八木城:内藤氏攻めが始まると、
譲葉山東郭:権現堂と西北角の土塁曲輪気脈を通じて…というか?早々に光秀方に下った奥丹波の豪族のなかに四王天(四方田<よもだ>)政孝もいた。荒木行重(大蛛城主?…大雲城<豊林寺城>なら大芋氏か森本氏だが?)細工所城主荒木氏綱(八上城主波多野氏家老:丹波の荒木鬼)の家臣。荒木氏綱・行重ともに天正5年”細工所合戦”に落城後・光秀に下りた。
瑞光寺前:四方田(四王天)政孝・政実兄弟の屋敷「門屋さん」付近四方田(四王天)政孝・政実兄弟が棲んだ"四方田館…(四方田政孝屋敷)”は柏原町(旧)平井村(R176柏原本町交差点を東に入った瑞光寺の前付近の民家で屋号も”門屋”さんと呼ばれ随分と以前:茅葺き屋敷門が残っていた。茅葺き屋敷門は10数年毎に葺替える要あり…由緒ある!?”門”だが維持管理面からも
柏原本町交差点より旧門屋(四方田館)付近・柏原八幡・譲葉山系諸城域を望む…民家の改築に際し残念ながら茅葺き屋敷門は撤去された。四方田(四王天)政孝の四方田館”門屋”さん周辺の伝承地の事・丹波内戦歴?を追って…次回四方田政孝と四方田政実Ⅱに続けます。
廃寺・徳源寺山門と土塀東奥城(八幡山城や譲葉山諸城砦群への兵糧物資中継所だったか?・大安寺跡から譲葉山(山頂部東西に織豊系付城・譲葉山城…がある)への登山ルートがあり、グラウンド拡張工事等で消滅?したが四方田政孝の墓(四方田塚)があったといい、寺も廃寺となった徳源寺だったとも…柏原藩織田家陣屋一帯の北丘陵:入船山に
八幡神社・背後の尾根筋に明智勢本陣(八幡山城?)140m・尾根続き高八山城330mは高見山城”赤井(五郎)忠家”の砦だった?。未だ不詳の加伊原新城は八上城包囲網が完遂した後:金山城を下って現:柏原八幡社にあった祭祀の祠や赤井砦を焼き・背後に築いた八幡城か?、或いは明智の将:妻木主計の石負砦=石生西河原城が
譲葉山西郭:空堀側から折れを意識した曲輪北東面加伊原新城ではないか?…。圧倒的勢力の侵攻に本陣を山上に築く要なく、本拠城監視は譲葉山諸城や向山連山の四の山砦もある。天正3年丹波の地にあって・丹波攻め明智光秀の家臣として「丹波攻略」に八木城:内藤氏攻めが始まると、
譲葉山東郭:権現堂と西北角の土塁曲輪気脈を通じて…というか?早々に光秀方に下った奥丹波の豪族のなかに四王天(四方田<よもだ>)政孝もいた。荒木行重(大蛛城主?…大雲城<豊林寺城>なら大芋氏か森本氏だが?)細工所城主荒木氏綱(八上城主波多野氏家老:丹波の荒木鬼)の家臣。荒木氏綱・行重ともに天正5年”細工所合戦”に落城後・光秀に下りた。
瑞光寺前:四方田(四王天)政孝・政実兄弟の屋敷「門屋さん」付近四方田(四王天)政孝・政実兄弟が棲んだ"四方田館…(四方田政孝屋敷)”は柏原町(旧)平井村(R176柏原本町交差点を東に入った瑞光寺の前付近の民家で屋号も”門屋”さんと呼ばれ随分と以前:茅葺き屋敷門が残っていた。茅葺き屋敷門は10数年毎に葺替える要あり…由緒ある!?”門”だが維持管理面からも
柏原本町交差点より旧門屋(四方田館)付近・柏原八幡・譲葉山系諸城域を望む…民家の改築に際し残念ながら茅葺き屋敷門は撤去された。四方田(四王天)政孝の四方田館”門屋”さん周辺の伝承地の事・丹波内戦歴?を追って…次回四方田政孝と四方田政実Ⅱに続けます。


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